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阿波と東国❷ イワイヌシとは何者か?

前回、阿波が日本の始まりだったと記事に書きました。この島の本当の歴史を調べるには、阿波の歴史を調べる必要があると。

そして僕の研究分野は古代の東国なので、阿波から日本が始まったとして、それがいかに東国に関わってくるかを今回の記事で書きたいと思います。

阿波の古代史を語る上でとても重要な氏族がいます。それが阿波忌部です。
この血統は現在まで脈々と引き継がれており、天皇が即位の際身にまとう麁服(あらたえ)を古代から現代に至るまで調進しし続けているのも阿波忌部の末裔、三木家です。
天皇はこの三木家の麁服がなければ即位することができません。
それは忌部氏の末裔が阿波で作った麁服にしか神が宿らないとされるからです。
それほど古来から阿波忌部は朝廷祭司の主要部分をになってきました。
この阿波忌部の足跡を辿ると古代の世界が見えてきます。

忌部氏の末裔、斎部広成が編纂し、807年に成立した「古語拾遺」という書物があります。それによると阿波国にいた忌部氏、天富命とその一族が麻のよく育つ土地を求めて黒潮に乗り、房総半島にやってきたとあります。その後関東一円を開拓して行った歴史が描かれます。
最初に降り立った地が現在の館山。安房神社がありますね。創建は神武天皇の時代とありますから、皇紀で計算すると約2600年前。そのくらい昔に阿波忌部が千葉にやってきたのだと思います。
古代、千葉は3つの国に分かれていました。安房国、上総国、下総国です。
並びが興味深いのですが安房国は房総半島の一番南にあります。その上が上総国、ついで下総国。つまり安房国という都に近い地域に上総という地名が用いられます。

そもそも忌部氏とは天太玉を頂点としていくつかの系統があります。
安房神社の由緒によると
主祭神 天太玉
相殿神 天比理刀咩命 妃
忌部五部神
    ・櫛明玉   出雲(島根県)忌部の祖
    ・天日鷲   阿波(徳島県)忌部の祖
    ・彦狭知   紀伊(和歌山県)忌部の祖
    ・手置帆負  讃岐(香川県)忌部の祖
    ・天目一箇  筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖

このように忌部氏は全国に広がっていたと思われます。もちろん古代は同族間の婚姻も多かったでしょうから、上記の系統も明確に分かれていたわけではなく、融合を繰り返していたと思います。
この忌部氏の系図を見ると、東国の神社の謎が驚くほど解けていきます。
まずはその系図を見てみましょう。

資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか

ここの赤枠で囲った箇所に注目してください。ここに東国のある神社の歴史が集約されています。
まず、天背男の子供に天日鷲と天比理刀咩が出てきます。天日鷲とは阿波忌部の祖、天比理刀咩は天太玉と結婚し、その子供に神武の時代、千葉に来ることとなる天富命が生まれます。いっぽう天日鷲の子供に大麻比古が生まれます。この神は阿波国一宮、大麻比古神社で有名ですね。その子供が由布津主です。そしてこの由布津主は天富命の娘、飯長媛と結婚します。 
この由布津主と飯長媛夫妻、千葉におおいに関係します。

下総国一宮香取神宮。東国三社に数えられる式内社です。
ここの祭神は経津主ですが、別名をイワイヌシ(表記 斎主または伊波比主
とされています。上の系図を見ると飯長媛に斎主の表記が見られます。
またその夫は由布津主。
経津主にだいぶ似てますね。

おそらく香取神宮とは阿波忌部直系のこの夫妻を祀った神社だろうと思います。
また地元に残る古来の伝承では、もともとは経津主ではなくイワイヌシを祀っていたという言い伝えもあります。そもそも経津主は古事記には出てきません。日本書紀にのみ登場する神様です。だから元の祭神はイワイヌシという地元に残る伝承は、おそらく正しいのかもしれません。

話は変わりますが、古事記と日本書紀でその内容がなぜ食い違うのか?それはそれぞれの成立過程にその秘密があります。

まず古事記の編纂は第40代天武天皇の勅命によって開始されます。だいたい680年くらいでしょうか。
目的はそれまでの歴史書「帝紀」「旧辞」が多くの人間によって加筆され、その価値に疑問符がつくようになっため、新たな歴史書である「古事記」を作る必要性が出てきたためです。しかし天武天皇の存命中には完成されず、編纂も一時中断されてしまいました。
そんな最中、藤原鎌足の次男、不比等が日本書紀の編纂を開始します。
この藤原不比等は持統天皇以降の宮廷を支配し、藤原氏の絶対的権力の礎を築いた人物です。
不比等は古事記の編纂よりも日本書紀の編纂に注力を注ぎました。
そしてある程度日本書紀の撰述の目処が立った708年、他の王族や有力氏族に突かれたのか、ようやく古事記の再編纂に取り掛かります。
その結果古事記は712年に成立し、日本書紀は720年に成立します。
これは聞いた話ですが、日本書紀の撰述期間は30年かけたのに、古事記の撰述期間はたった3ヶ月だったそうです。
この経緯を見てもいかに不比等が古事記を軽視していたかわかりますね。
よって古事記から王家の歴史部分は削られました。内容が神話伝説を集めたファンタジー的性格を帯びているのはそのためです。
なぜ不比等はこの国の正史を描こうとする古事記を軽視したのか?
そこには不比等の父、中臣鎌足の出自が関係してきます。
古代史関連の本を読んでいると、中臣鎌足が百済から来たという論考が昔から多く見られます。実際鎌足が朝廷で実権を握ったのも乙巳の変というクーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼしたあとですから、そういう説が出てくるのも理解できます。
また鎌足はそのクーデターの際、蘇我氏の持っていた歴史書を焼き払ったという説話もありますから、まあ、出自を疑われるのも当然ですね。
僕も鎌足の血統は太古からこの国で朝廷の祭祀に深く関わっていた氏族ではないと思います。

中臣という姓はもともと中ツ臣からきています。この中ツ臣とは個人名ではなく古代の祭祀を取り仕切る官職名であり、鎌足がその官職名を氏族名に占有化したのが中臣という姓の始まりです。鎌足は始祖をアメノコヤネとしていますが、鎌足の出自が百済説は以前から多くの研究者がしているように、僕もアメノコヤネと鎌足、のちの藤原氏を素直に繋げるのはいかがなものかと考察しています。もし藤原氏がアメノコヤネ直系ならば、蘇我氏の持っていた歴史書を焼却する必要はないです。

上記のように中臣→藤原のこの国での歴史の流れを鑑みると、不比等が古事記を軽視しなければならなかった理由が見えてきます。
つまりこの国の本当の歴史を書かれると中臣・藤原家にとっては都合が悪かった。
途中から入ってきた血筋は、それ以前の歴史をこの国で持たないからです。
だから蘇我氏の持っている本当の歴史書が邪魔だった。
古代の有力氏族とはその血統が最も重要視されます。神話に出てくる神様の末裔であることが第一の条件です。もし、それ以外の家柄の人間が朝廷で力を持とうとするなら、それはクーデターを起こし、歴史を改竄するしか方法がありません。
正攻法で攻めても、過去という時間軸はどうすることもできません。
だから不比等は日本書紀で歴史を書き換えるしかなかったのです。
ではその状況を他の有力氏族は黙って見ていたのかというとそうでもありません。
古代から朝廷に深く関わっていた忌部氏は斎部広成が古語拾遺を807年に成立させます。これは忌部の由緒を記した歴史書で、中臣氏に対する訴えです。また物部氏の先代旧辞本記の成立が806年から906年とされていますから、これもだいたい同じ時期に出ています。重要なのはこれら各氏族の歴史書が日本書紀が成立した720年以降に成立していることです。よほど日本書紀の内容が納得いかなかったのでしょう。またはこの国の真の歴史が失われることを憂いたのかもしれません。

では古事記のほうはどうなのか?もちろんこちらも不比等が目を光らせていましたから書けない歴史が多々あったことかと思います。しかしこちらは太安万侶が編纂しています。太安万侶とは古代史族多氏の末裔です。不比等とは違い、古代から朝廷の祭祀を担当してきた氏族です。僕もいろいろ調べましたがこのこの多氏と忌部氏はだいぶ近い関係にあったと思われます。ほぼ同族と言ってもいいくらい深い間柄だと考察しています。
そして東国の古代史を調べる上で、この多氏と忌部氏はまず最初に知っておかなければならない氏族です。東国の開拓はほぼこの二氏族によって行われたと言っていいくらい、史跡や伝承が千葉や茨城に残っています。
この太安万侶がなんとかこの国の正史を古事記に残そうとした痕跡が伺えます。そのまま真実を書けないまでも、数多くのヒントを残してくれています。
僕たち古代史を調べている人間はその古事記に散りばめられたヒントを頼りに、ああでもないこうでもないとさまざまな考察を展開します。

古事記と日本書記の説明でだいぶ話がそれました。本題の阿波と東国に戻ります。
香取神宮で祀られている経津主とは、忌部系図にある由布津主と飯長媛夫妻だと僕は考察しています。夫妻としましたが、僕はこの妻の方が特に重要なんじゃないかと見ています。経津主の別名はイワイヌシ(斎主)でしたね。そして忌部系図では飯長媛に斎主が付いています。

菱沼勇・梅田義彦『房総の古社』によれば、斎主とは神を斎い祭る人の義で、祭祀を主宰する人のことであって、香取神宮の祭神は、本来他のどなたかの神に対する祭祀を司った人を神格化したもの、その死後において、神として祀られたものと解するのが妥当で、死んで香取神宮の祭神となった斎主は物部小事の母親だったのではないかとする。

この「房総の古社」を書いた菱沼・梅田両先生は斎主は物部小事の母親としていますが、僕は忌部系図にあるように飯長媛だと推察します。
飯長媛が香取神宮で斎主となり、どなたかの神に対する祭祀を主宰していた。
やがて斎主である飯長媛が亡くなり、今度は飯長媛自身がイワイヌシとなり香取の主祭神として祀られた。
こういう経緯だと解釈しています。そして一番気になるのが、
飯長媛が香取神宮で斎主となり、「どなたかの神」に対する祭祀を主宰していた。

この「どなたかの神」の部分です。

つまりもともとは飯長媛ではない香取で祀られる神がいた。

それはフツヌシ・イワイヌシより以前の香取の神です。

香取神宮の本当の主祭神は誰なのか?

そのヒントは阿波にあると思っています。

今回は長くなりましたので、その考察はまた次回に。
次は香取神宮の核心に迫ります。

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