「わからない」の資源問題。

 「わからない」が乗り越えるべきものでは、なくなってきているのかもしれない。この感覚は、あれに似ている。…そうだ「バリアフリー」だ。あらゆる段差は平坦に。段差なんて、ある方が問題なんだ。ぺったんこイズ正義。

 これを問題視するかどうかという話。考えてみれば、現代のあらゆる場面で、この「バリアフリー」が実行されている。アプリの操作法も、映画やゲームのシナリオもそう。スッと入ってこないといけない。その割に簡単過ぎても飽きられる。しかし、その段差すら自然発生ではなく、デザインされ、コーディネートされたもの。「あえて道を蛇行させた庭園で、多様な景色を楽しませる」みたいな話。

 私は教育従事者だから最初はこう思った。
「分からないを、分かるための、知識であり、学問だろうが!勉強する意味が根底から崩れるような問いじゃないか!分かりやすくすれば売れる、分かりやすくなければ売れない!おのれ資本主義!おのれ市場経済!」
割りと本気で、こんなことを考えた。これじゃ、勉強のモチベーションなんて上がるはずが無いじゃないか、と。

 でも、待てよ。ふと思いとどまった。

 遥か昔、ヒトの周りには「分からない」が山のようにあった。なんなら、「分からない」しか無かった。「分かる」ことなんて数%も無かったはずだ。手探りで生きて、最初は分からないをそのままに、とにかく生きて。ある程度余裕が出たら、哲学が生まれた。分からないに名前をつけて分類し、観察し、つぶさに記録して、仮説を立てて、検証して。やがて、学問として枝分かれをしていった。さながら、生物の進化系統樹のように。何世紀もかけて、「分からない」は「分かる」にされてきた。物理的な意味でも、抽象的な意味でも、「闇」は照らされて明るみに。悪魔や妖怪や妖精は、定義や定理や現象になった。

 「分からない」を石油や石炭のような資源だと考えてみよう。もう、明らかに枯渇資源だ。解き明かすべき謎は、極限環境に命がけで探しに行かないと見つからないレベルの超貴重資源になってしまった。ありふれた、石ころのようにそこらへんに転がっていた時代とは違う。名前をつける喜びも、仮説を立てる楽しみも、検証のドキドキも、もはや庶民の手に届くところには、無いのだ。

 絶望的な気分になった。これでは勉強の面白さも何も、あったものではない。現代になってなお残っている謎は大きすぎる。グローバルだったり、宇宙だったり、脳だったり。AIだったり。全然身近じゃない。幼子が抱く「なぜ?」レベルのことは、今は解決されてしまっている。全クリ間近のクエストブックのような状態。どれもこれもチェックマークがついている。現代になって生まれた謎、スマホと依存の関係性、経済システム、幸せの価値観。もはや複雑怪奇で逆に妖怪のようだ。倒したはずのレッドアリーマが2体に増えて笑っている。

 学ぶ楽しみ、という言葉へのモヤモヤとした違和感は正しかった。そりゃそうだ。そんなものを実感できるのは大学院レベルの話だ。リッチなのだ。だとしたら、どうする?どうしようも無い。倫理的な観点で言えば「足し算が出来ないの?生きている価値無いじゃない」とも言えない。

 国が求めている人材とは?昔と同じ規格で部品を作ったとして、本当に納品できるのか?受け取ってもらえるのか?そもそも、国は、世の中は、はっきりと、次世代の規格が定義できているのか?…よもや、それを現場の教員に考えろって話なのか?

それは、いくらなんでも、まずいだろ。

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