「つくね小隊、応答せよ、」(十)
「道雄、おい、道雄、大丈夫か?」
渡邉道雄はゆっくりと目を開ける。
目の前には、心配そうに道雄を覗き込む甚がいた。
道雄は、ぼんやりと甚の顔を見る。
すごく懐かしいような、不思議な気持ちだ。
「あれ、え、これは、え?えっと、俺、どうしたんだっけ?」
道雄はぼんやりとした顔で、甚に尋ねた。すると甚はあきれた顔で笑う。
「お前がまた喧嘩した。で、俺がまた加勢した。っていう、いつものやつだよ。いい加減飽きたんだけど、そういうの」
甚は頭をかきながら、道雄に手を差し伸べる。道雄はその手を握り、起き上がった。でも立ち上がっても歩く気にはなれなくて、路地の壁に背中をもたれて座る。甚は道雄と向かいあわせにしゃがむ。
路面電車の通る賑やかな通りの裏路地。そこに道雄は倒れていた。
「あ、少し思い出した。また隣町のあの5人組か?」
10歳の道雄は、肘や膝を擦りむいている。転げ回って喧嘩したらしく、髪も顔も、そして着物も砂まみれ。下駄の鼻緒も切れかかっている。
そして、同い年の甚は、仕立ての上質な着物と袴。そして、紺色の学帽を被っている。
数ヶ月前、隣町のふたつ年上の5人組が「俺らをバカにしてる」と道雄に難癖をつけてきた。最初は無視をしていたが、あることを言われ、その時から、会うたびに喧嘩になった。難癖をつけられて、逃げるのも癪だから相手をするけれど、5人が相手だ。相手も無傷ではないけれど、だいたい道雄のほうがやられる。
「なんで勝てない喧嘩を毎回するんだよ。無視すりゃいいのに」
甚が面白い物をみるように道雄の目を覗き込んで言う。
甚は、利発で真面目で、育ちが良くて、仲間思い。運動神経もよく、剣道をしているから間合いの取り方がうまく喧嘩も強い。そして顔のつくりもいいときている。そんなやつが自分の肩をいつも持ってくれることを、道雄は内心誇りに思っていた。
「むかつくこと言うから、殴ってやりたくなる…」
「なんて言われんだよ」
「…言いたく、ねぇ」
「おい、…道雄、なんべん助けたと思ってんだよ…そりゃ不義理だぜ…いいじゃねえかよ、教えてくれたってよ…」
甚が少し悲しそうな顔をしたので、道雄は少し慌てた。こいつもこういう顔をすることがあるのか、と妙な親近感が沸いた。
「あ、あいつらがよ、俺の母親のことを言うんだよ…」
「なんて言うんだよ?」
「妾だって。お前は妾の子だろって」
甚が少しだけ息をのんで黙った。道雄は、彼らのその言葉を思い出して、悔しくてぽろぽろと泣き出した。
「…母親にはよ、会ったこともねえのに!顔も知らねえのに!それだけでも俺は嫌な思いしてんのによ!なんで母親のこと、隣町の知らねえ奴らに言われなきゃいけねぇんだよっ!くそう、悔しいじゃねえか…」
甚は、優しく、悲しい目をして、道雄を見つめる。何も言わずに、甚が、道雄を見つめる。
昭和3年。
西暦1928年。
日本で初めてバスガイドが誕生し、、ラジオ体操や相撲がラジオ放送開始され、アメリカではミッキーマウスが誕生したこの年。
大正7年生まれの道雄と甚は同じ町で生まれ育ち、同じ時間をたくさん過ごした。二人の間には、貧富の差こそあったものの、甚の家族も道雄をよく可愛がり、道雄の祖母の経営する食堂に、家族で食事に来たりしていた。
道雄の母は、彼が生まれてすぐ、彼を自分の母に預けて消えてしまった。だから、育ての親は、祖母の幸(ゆき)だった。
やがて、悔しい顔をしながらも、道雄が泣き止む。するとすかさず、甚が無理やり道雄を立たせ、下駄を脱ぐ。
「道雄!うちでよ、きんつば食おうぜっ!俺んちまで、陸上競技ぃっ!いいか?!ひぃ!ふぅ!みぃ!」
甚は道雄の返事を待たず、走り始める姿勢をしている。道雄はあっけにとられていたが、涙を拭い、まじめな顔で下駄を脱ぐ。
「っっっっいまっ!」
甚の合図と共に、二人が駆け出す。砂を蹴る4つの裸足。乾いた小気味よい音が、裏路地に響く。
裏路地から表通りに出ると、客寄せ、路上販売、路面電車、牛車、自転車が走り、行商、郵便配達員、そして沢山の人々が歩いている。
裏路地から表通りに出たとたんに、ぶわぁぁぁあっとたくさんの音が押し寄せてきた。
その雑踏を、甚の背中が颯爽と駆け抜けてゆく。その背中を追う道雄。少し道雄が追い上げ、それを甚がさらに追い上げる。
いつしか、道雄は笑顔になっていた。涙が、自分の起こす風に乾いてゆく。
「お!道雄!甚ちゃん!まあた駆けっこか!ほれ、いちじく、もってけ!」
道の真ん中にいた野菜売りの、顔なじみの爺さんが、走るふたりに声をかけて、いちじくを放り投げる。いちじくは青い空に、放物線を描いて飛ぶ。
ふたりの少年は高く跳んで、いちじくを掴む。青い空に着物をきた笑顔の少年ふたり。
「おいちゃん!ありがとぅ!」
「おいちゃん!ありかとー!」
ふたり同時に言って、野菜売りの爺さんの脇を風のように通り過ぎる。
握りしめたいちじくの、ひんやりした感触。裸足が地面を蹴る感触。
「おい、こいつらもう、だめなんじゃねえか?もういいじゃねえか、ほっとこうぜ」
低い声で誰かが言う。
「いいえ。ちゃんと三人とも息をしてますよ、大丈夫です」
落ち着いた声で、誰かが言う。
「そうですよ、死んでないですよ。んもぅ、いつもそんなふうに勝手に決めつけないでくださいよ、ったく」
別の誰かが、ぶつぶつと最初の声に抗議している。すると最初の低い声が、いらいらした声で、その声につっかかる。
「はぁ?てめぇ誰に口きいてんだよ、何様だ?」
「何様だろうが秋刀魚だろうが、勝手に決めつけるのはやめてくださいよ!そっちこそ何様なんですか!」
「あ?なんだとこら?」
「ちょちょちょちょちょっと!またこんなとこでやめてくださいよ!ね!やめましょう!ね!」
落ち着いた声が、二人を仲裁している。どこかで聴いたことがある声。
渡邉は、ゆっくりと目を開ける。
石の焼ける臭い。
ぱらぱらとこぼれ落ちる岩壁。
あれ、いちじくは、どこいった。渡邉は手を握ってみたが、いちじくは握っていない。あ…そうか、艦砲射撃か……
「こいつらがこれをやりてぇんだったらもうやらせておけばいいだろ、俺は帰るぜ」
「ほら!またそうやって勝手に決めて!」
「ちょちょちょっと、またそういう言い方したらまた始まっちゃうじゃないですか…」
誰だ、この声。
あ、昨日の、茂みで聞こえた声だ。
三人が、頭上の離れたところで話をしている。やっぱりあれは、気のせいじゃなかった。何者かが、自分たちを、ずっと偵察している。
渡邉はゆっくりと、銃剣を手で探し、銃剣を握る。
ゆっくりと顔を傾け、声のする方を向く。
「あっ!」
と声がして、一瞬で気配が消えた。
声のする方を見るが、そこには誰もいない。渡邉はすぐに立ち上がり、あたりの茂みを素早く見渡す。
何度も何度も見渡すが、草の一つも揺れていない。誰かが逃げ込めば、その動きの余韻は残る。けれども、その余韻の一つも見受けられなかった。
「なぜ俺たちにつきまとう!同じ日本人だろ!一体誰なんだよっ!いるなら姿を表してくれよっ!」
思わず渡邉が大声で叫ぶ。
返事はない。
「なんだよ、おれ、ついに狂っちまったのかよ…」
渡邉は銃剣をぽとりと落とす。地面に銃剣が突き刺さる。
そしてその場にすとんと座り込んだ。
ひとつの美しい盆栽に目がとまった。いい枝ぶりの、きれいに手入れされた松の盆栽。ふるさとの、植木屋の留吉さんが見たら、惚れ惚れするだろうなぁ、と渡邉は思った。
密林の中の盆栽。南国にある和。盆栽を見て、心なしか落ち着いている自分に気づいた。脱力した体で、静かな心で盆栽を見つめる。しかし、違和感に気づいた。いや、おかしい。ジャングルに、盆栽はおかしい。
「………なんで、こんなジャングルの奥に、盆栽なんか…あるんだよ…え?」
渡邉は我に返って、盆栽へ歩み寄る。よく見ると、盆栽から、水が少しずつ、滝のように流れている。まるで汗のようだ。そしてさらによく見ると、少し震えている。
「いってぇぇっ!」
背後で転がっていた仲村が、飛び起きる。その声に驚いて、歩兵銃を構えながら清水が飛び起きる。
仲村は、転がっていた背中の下に尖った岩があったようだ。怪我はしていないが、そこに長時間寝転がっていたので、その痛みで意識を取り戻したらしい。
「どうした!仲村!大丈夫か!!」
半ば脱げかけた帽子、外れかけた眼鏡で、清水が銃を構えながら仲村に問いかける。
すると、仲村は寝違えたような顔をしながら答えた。
「ワニに背中の肉をがしがしがしがし、スルメ食ってるみたいに齧られる夢を見てたよ、痛ってぇ…」
清水もだいたい事情を思い出してきたのか、帽子と眼鏡を直し、自分の体に怪我がないことを確認し、ふたりに問いかけた。
「渡邉、仲村、ふたりとも怪我はないか?」
渡邉も仲村も、無言で頷く。すると仲村が、申し訳無さそうに二人に言う。
「すまん。俺のせいで…。あと、渡邉、さっきはぶん投げてくれてありがとう。ぶん投げられて、ありがたいって思った経験は、さっきのが初めてだわ…」
三人は、先程潜んでいた岩陰を見る。
大きな岩がいくつも折り重なり、苔むした岩場はなくなっていて、岩と土に埋もれた掘削場のようになっている。
「渡邉、すまん、早く走れなくて…」
清水も申し訳なさそうに渡邉に謝る。渡邉はぼーっとして、ふたりの言葉に頷く。
「あ、盆栽」
渡邉がそう呟いて、盆栽を振り返る。
盆栽は、そこにはなかった。
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