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演技性パーソナリティ障害疑いとSNS

 大学生の頃はTwitterもインスタグラムも熱心にやっていたが、いつも自分のアカウントの方向性に真剣に悩んでいた。画像に白枠はつけるのか、つけるとしてどれくらいの太さにするか。甘めフェミニン系にするなら全体を淡いトーンで加工しなきゃだし、古着おしゃれ系にするならフィルムカメラみたいなマットっぽい加工にしなきゃいけなくて、共存できない。いや、あえて無加工こそ、逆に気取ってなくて好感度高いのかな?キャプションの絵文字は使う?使わない?感想を長々と書く?それともあえて「たのしかったー(^^)」とかそっけない感じにする?
 そんな風にあれこれ考えることが楽しいならば、それも立派な趣味と言えるのだろうが、私にとっては苦痛でしかなかったし、結局どんな系統も継続することができず、統一感のなさに嫌気がさして何度もアカウントごと消した。

 それに引き換え、文章はいい。統一感だのうだうだ考えず、心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書くことができる。写真や絵よりも、文章こそが自分自身と最も肉薄したアウトプットの形態だと感じている。このnoteも、正に心の露出狂よろしく思うまま書き連ねてきた。
 しかし、私と違って、一番裸に近いはずの文章ですら、一貫して魅せるための美しい形をSNSに掲載し続けているアカウントを見ると、素直にそういうパーソナリティが羨ましくなる。私だって、清潔な思考の持ち主になって、おすましでおしゃれで無難なエッセイだけをつらつら書き溜めたいよ。それが彼/彼女らの裸の文章なんだろうか?だとすれば、なんと美しい体だろうか。それに引き換え、ただひたすら内面を掘り下げるために書いている自分の文章は、切実だけど、ドロドロ汚くてダサいなと思う。
 美しい文章を目にするたび、文章にすら洋服を着せたくなる。おしゃれで上質な洋服を。

 私は多分、人一倍、いや、人百倍くらい自意識と虚栄心が強い人間なんだと思う。人からどう思われているのか、とても気になるし、他人が私に対して抱いた期待と外れてしまって幻滅されることを何よりも恐れている。人気者が羨ましくて仕方がなくて、どんなキャラクターでも衝動的に真似してしまう。可愛い系、フェミニン系、アンニュイ系、アート系、etc。私にとっては、自然体でいることこそ何よりも難しい。こうなりたい、ああなりたいと第三者の姿を願う時、肝心の自分自身は無色透明な存在に成り果てている。それは結果的に、心の労苦の割に何も生み出さないことをさすがに知っている。

 私みたいな性格の人間は、つくづくSNSが向いてないんだと思う。
 そしてこの文章を書きながら思ったけれども、他人様をいちいちカテゴリー分け、キャラクタライズする癖も自分の苦しみを助長しているのかもしれない…。それって、ありのままのご本人を見てないってことだし。あとは、単純に他人に興味がありすぎるのかも。自我が空っぽだから他人に興味が湧くのか、他人にばっかり興味持ってたから自我が育たなかったのか、鶏卵問題ではあるけど…。

 自分の深層心理を探検する手段として、今のところ“ひたすら書いていく”という術しか持っていない。だから、文章ですらありのままを出せなくなるのは、私にとって本当に恐ろしいことである。せめてnoteでは、裸の私のままで存りたい。

 以上、最近キラキラ輝く人様のアカウントばかり見すぎて、完全に自分を見失っていたな… という反省文でした。アイコンがリカちゃんやマロンクリームちゃんにコロコロ変わっていたのも、当時可愛い系になりたい衝動に駆られていたからです。初期設定に戻そうかな。。でも飽きたんだよな。。(ハイまた延々悩むやつ)

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