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まねぶ

中学生の時、合唱祭があった。伴奏をしてくれるクラスメイトは、習い事でピアノをやっている子たちだった。ほとんど疑問はなく過ごしていたのに、一度だけ「なんで学校ではピアノの弾き方なんぞ教えてくれないのに、学校行事ではピアノを弾く機会があるのか」と思った。外で習ってピアノが弾ける子にただ乗りしてるみたいに感じた。正直、家でピアノに触れる機会のなかった私は暗黙の了解で選ばれるその子たちがうらやましくて、悔しくて、劣等感を感じていた。

学校では、文部科学省が10年ごとに見直している、学習指導要領によって教えることが決まっている。それは、かならず「走れメロス」をやりなさい、とかではなく、結果的に”育てたい力”が明記されている。その目標が達成できるように工夫されて作られているのが教科書だから、私たちは教科書で勉強をする。だから、”育てたい力”さえブレなければ、教科書じゃないもので教えてもいいことになる。

そう考えると、ピアノの伴奏ができる、という能力は日本中の中学生が将来のために身につけてほしい力というわけではないのだ。楽器に触れ、演奏する技能は求められても、それを極めるところまではする必要がないということだ。

よく、「学校では教えてくれない○○!」みたいなあおりで紹介する番組はあるが、キャッチーなんだなと思う。学校(というか義務教育)とは、何かの技能や知識を教えるというよりは、技能や知識を学ぶ中で、ものごとの見方とか、考え方とかの”力”を育むもので、その気になって自分で学ぶことができることは自分で身につければいいと思う。高校まで行くと、専門的な学習ができるところもあるから、少なくとも義務教育までは、「こんな勉強して将来何になる」と思っても、その勉強を通して自分の中身を組み立てていると思ってもらいたいなと思うけど、私なんかに何ができるというわけでもない。

どうか、学校という場所が嫌いでも、学ぶことは嫌わないでほしいなと思う。べつに学問のなにでも無い私がこんなことを言えたものじゃないが、学ぶことは、とても身近で、いくらでも世界を広げる手段だからだ。本を読んだり言葉を覚えたりすることだけが勉強ではない。まなぶことは、まねることだ。まねをする(=まねぶ、真似ぶ)が変化して学ぶ、になったと言われている。勉強の本質は模倣することで、対象は何だっていい、何かを真似したら、学習は始まっている。

歌がうまくなりたくて、あるアーティストの歌をずっと歌う。英語の曲を何度も聞いて発音をまねする。英語の意味が気になって調べたら、もう新しい世界は広がる。美術館で見た絵が忘れられなくて、似た色を使って絵を描いてみる。自分の絵には全然感動しない。絵の画像を調べたら、思っていた以上に本物の絵の色は明るい。自分はどうして暗めに色をとらえたのか?色意外にこの絵に惹かれたのはなぜ?にらめっこしながら絵を描き、見たときには気づかなかった色の存在や、筆遣いに気づくことがある。何かをまねるとき、知らなかったことを知り、知っていたことが深くなり、そのたびに世界の解像度が上がる。

私たちが生まれてから言葉を話すようになったのも、周りの人の言葉のシャワーを浴びて、聴こえた言葉をまねしはじめたからだ。まねたい、何かに近づきたいと思う気持ちは強く自分を動かすことにもなる。学校だけが勉強ではない。あの時、ピアノが弾けなくてぶそくれていた私に、悔しかったら教室のオルガン、使ってなんかやってみろよ、と言いに行きたい。

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