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東京に住むと、「死」に対する感覚がマヒする

誰かが死ぬということは、その人が身内や知人、友人であれ、赤の他人であれ、度合いこそ変わってくるが、悲しい気持ちになる。
しかし、日常的に誰かの死を知らされ続けると、その感覚はおかしくなってくる。
つまり、「悲しい」以外の感情が生じてくるのだ。

東京をはじめとする首都圏に暮らし、電車を利用していると人身事故に多く出くわす。
日常的に、というレベルではないけれど、結構な頻度で「誰かの死」に直面することが多い。
首都圏は鉄道網が広いので、どこかの路線で人身事故が起きるのだ。

普通の感覚なら、誰かか死ぬという事実に心を痛めるが、なぜかそうならない。
それよりも、「チッ…またどこかの路線で誰かが死んだのかよ…電車遅れるじゃねえか…(と怒ってスマホを取り出し遅延情報を見る)」という移動を足止めされた怒りの感情が湧いてくる。
不謹慎ではあるけれど、首都圏に住んでいる人なら、きっと抱いている感情だと思う。
事実、私も東京に住んでいた時、そのような感情になった。

東京はとても便利な地であり、最先端の情報も多く集まっており、「人によって」は、最高の環境である。
しかし、生活環境としては、満員電車や狭い土地に大量の人間が集まっているなど、ストレスがたまる要素が多い。
結果、自分のことでいっぱいいっぱいになり、他人のことを気にかける余裕がなくなってくる。
そして、他人が人身事故で死のうが、それはあくまで他人事であり、それよりも自分の予定を乱されることに対する怒りの感情が芽生えてくる
死に対する感覚がマヒするのだ。

人がいちいち死ぬたびにいちいち心を痛めていたら、もうそれだけで身が持たないので、悲しみ以外の感情が出てきても、ある意味当然ではある。
しかし、事故による死がそれだけ日常的に繰り返される環境というのは、おかしなことだし、その死に対して鈍感になるというのは、都市としてはヤバいのではないかと思う

その点、現在私が住んでいる札幌では人身事故はほとんど起きていない。
地下鉄全駅にホームドアを設置しているので、当然と言えば当然だが、突発的に死にたいと思わせる環境がないのも影響しているのだろう。

札幌は面積が広いうえに他の大都市と比べると、人口が少ないので日常的にストレスがたまるということはあまりない。
東京よりもギスギスしている感じもしないので(私の感覚に過ぎないけれど)、精神がすり減るということも少ない。
ということからも、死にたくなるような要素があまりないので、自殺による死はあまり多くはないように思える。

死に対する感覚。
人が死ぬたびに心を痛めているのでは、身が持たないので、別の感情になるというのは、仕方がないことかもしれない。
でも、死が繰り返される環境に身を置き続けるのは、健全ではないので、あなたがもし何かを感じるなら、それは住む環境を変える時かもしれない。

以上。





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