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「親ガチャ」について思うこと

最近色々なところで言われている「親ガチャ」について感じることを書いていきたいと思います。個人的にガチャと言う表現はあまり好みませんが、今の若い人達が自分が出自を選べない事をガチャと例えるのはわかりやすい、スッと心に落ちる表現なのかも知れません。
動画では「特権」と訳されていますが、わかりやすい動画になっているので、ご参考までに。

★「親ガチャ」は存在する

まず、大前提として「親ガチャ」は存在すると思います。東京に実家があり、両親ともに仲が良く、両親が高学歴で高収入の例えば弁護士や医師の元に生まれた子どもと、田舎町であまりお勉強が得意でないシングルマザーの非正規の元に生まれた子どもでは、そもそもスタート時点が違う事は誰の目にも明らかでしょう。

前者は教育や情緒面で時間的にも経済的にもかなりのボリュームを持って子どもに接する事が出来、子どもの持つ可能性をたっぷりと引き出し、伸ばしてあげられる要素が大きいです。片方、田舎のシングルマザーの子どもは(全てのシングルマザーを指すわけではない。あくまで比喩として)毎日の食事や光熱費の心配をせなばならず、教育の重要性がどうしても相対的に低くなりがちです。地方は東京と違い、文化資本も乏しく、例えば街に一軒家も本屋がない自治体が相当数あると聞きます。もちろんそういう地域は図書館とてあまり充実していないでしょう。

都会の子達が付属の小学校、中学校、高校、大学と進学するにつれ、良くも悪くも似たような境遇の友達から先生から塾の講師や家庭教師からたくさんの刺激を受け、様々な体験を積むことが出来るのに対し、地方ではそれらから切り離されて成長していくしか方法がありません。
「大学」という物を見たこともなければ、親族揃って誰も大卒がいないパターンも考えられます。その場合、誰が高等教育の重要性を説くかと言えば、担任や進路指導の先生ぐらいでしょうか。そしてこの「親ガチャ」の恐ろしいところは親から子へ、子から孫へと連鎖していくことです。階級の固定です。
マイケル・サンデル教授が何度も繰り返し述べる「実力も運のうち 能力主義は正義か」にこれは詳しく書かれています。アメリカは日本より、よりこの「親ガチャ」に左右される機会が大きいのでそれに対する警鐘を鳴らしているのでしょう。


★全てが「親ガチャ」できまるわけではない

これは、誰しも見聞きしたことがあるでしょうし、実際に様々な不遇な環境から生まれてもきちんと成功した例をご存じのことでしょう。遺伝ですべてが決まるわけではないし、むしろ後天的な環境因子のほうがその人の成長過程においては重要なことは経験的にも実感を伴います。ただその後天的な環境因子にもかなりの部分「親ガチャ」が関係しているとなると話は変わってきます。さきほど書いたように十分な学びの場を幼少期から与えられる親とその親が作り出す環境。そうですね、「場所ガチャ」といっても差し支えないかもしれません。「孟母三遷の教え」は今でも確固たるものがあるのです。それでも学びの意欲が強い子、好奇心に満ちている子は、人生のどこかで頭角を現し、成功する確率が高いと思われます。逆に親や環境に恵まれてもあまりぱっとしない人生を送る人も多くいますね。何もかもが「親ガチャ」で決まるわけではないけれど、「親ガチャ」で恵まれたスタートを切った人のほうがそうでない人より人生を有利に進めることができるのは明確なのではないでしょうか。

★「親ガチャ」以外にも「ガチャ」はたくさんある

これは、日本の2021年に限ったことではありません。「国籍ガチャ」、「世代ガチャ」、「ジェンダーガチャ」、「人種ガチャ」、「運動神経ガチャ」、「持病ガチャ」、「障害ガチャ」など私たちを形作る要素はいくつもの「ガチャ」によって構成されています。人間というものはそれだけ多面的な生き物なのでしょう。生きている時代によってそれぞれの置かれる社会的な立場は変わります。少なくとも現在の「日本」で生まれていることは、世界的に十分恵まれていることは自覚する必要があるでしょう。

★「親ガチャ」当たりでもしんどい人生もある

これは、私と夫の共通体験から言えることです。私も夫も偶然、小学校、中学校、高校と公立学校の出身で夫はクリスチャン系の私立大学、私も同じく私立の短大卒です。二人とも大学、短大に入学してからいわゆる内部(小中高とずっと付属でそのまま大学に入ってきた人たち)の学生たちに出会いました。それまではあまり関わりのなかった人種です。学生では到底手の届かないブランドの服やカバンを持っていて、お誕生日には大学の門の前に新品のベンツが親からサプライズとして届けられているのを何度も見ました。今まで私たちが見た中では最高の「親ガチャ」な彼等、彼女達。ゴールドカードを持って好きな時に好きな場所で遊び、男女関係も派手でした。私達庶民とはかけ離れた生活です。

でも良く話を聞くと、彼等は既に就職先も結婚相手も親が決めていてそれに逆らう事は出来ないのだと。親が決めた会社にコネで入社して何年か「預かり」と言う形で過ごし、その後親の経営する会社に入る。或いは弁護士なら弁護士資格を取って事務所を継ぐ。そういうレールが敷かれているのでそれからは決してはみ出す事は許されないのだとか。結婚相手も然り。親の会社の大口の取引先のお嬢さんと必ず結婚しなければならない。だからせめて在学中くらいは好きに遊ぶのだと。

何と言う不自由な人生!自分の就職先も結婚相手も自分で決められないなんて!戦国時代そのままじゃないか!

若かった私はそう思いました。そんな「親ガチャ」なら私には必要ないと。もちろん彼等彼女達が彼等の人生をどう捉えていたかは本心までわかりません。でも少なくとも「親ガチャ」当たりでもしんどい人生が決められている人もいる事を知りました。

★最後に

結局は「配られたカードでなんとか勝負するしかない。」という人もいますね。確かに今の自由主義資本主義経済の中ではこの言葉が一番重みをもって受け入れられるのかもしれません。ただその配られたカード自体がすでに不公平なものであるならば、社会がどこかでそのカードを補強するような仕組みがもう少しあればより生きやすくなるのかもしれないと感じています。単に経済的な面だけでなく感情面や情緒面でも、あるいは若者だけでなく、ある程度社会に出てうまく適合できない人にも、ドロップアウトしたらそこで二度とゲームに戻れないような仕組みは誰にとってもしんどい、辛い世の中なんじゃないかと思うのです。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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