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ひさしぶりのぼこう


前回の続き。


久しぶりに帰省から、親との会話もそこそこに僕はすぐに家をでた。
父の車を借り、思い出の道を気の向くままに車を走らせる。

10年前とほとんど変化のない田舎道なのだが、毎回この時ばかりは不思議と「懐かしさ」という名の感情に心を躍らせる。

哀愁にというものに少し似た感情なのだが、この感情がなんとも言い難い魅力がある。
海外旅行のような新鮮さもたしかに刺激ではあるが、久しく地元の帰っていない人はこの感覚を感じられるはずなので、ぜひ騙されたと思って地元に帰ってみてほしい。

話を戻すが、毎回気のむくままにドライブをするとは言ったが、
ゴールだけはいつも決まっている。

別にそこが田舎の行き止まりというわけでもないが、僕はいつも決まった場所で僕は車を降り、そして家に帰る。

これがお決まりのパターンなのだ。

その場所には僕の「青春のすべて」があり、それ以外にはなにもない場所。
しかし、僕にとって大切な思い出の地である。
そして、僕以外の人にとっては、きっとなんの変哲のない場所だ。

ここで僕のことを少しだけ話すと、僕は年に一度は帰省してはいるが、親と仲が良いとはお世辞にも言えない。

別に、過去に親と大きな争いごとがあったわけでもないし、全く喋らないなんてこともずっとないし、反抗期すらまともになかった。
それに加え、今でも母の日や父の日にプレゼントを贈ったりもするので、
世間一般の親孝行とやらは、それなりにしてきているという自負もある。

しかし、僕は両親のことがあまり好きではない。
ただしくいうのであれば、きらいでもないし、好きでもない。

一言で理由をいうならば価値観が違う。
生まれてからずっと親とは価値観が合わない。

そう感じながらずっと生活してきた。

時には「僕は本当に二人から生まれたのか?」と自分でも不安になるくらいに馬があわない。

もちろん親や兄弟とはいえ、考え方の違いで喧嘩になったりもすることもあるしそんなこと普通だという人の方が多いだろう。

しかし、「離婚」や「一発屋のバンド」の離婚・解散理由の一位は「価値観」の違いなのだから、この「価値観」とやらの違いは、誰にでもあることだからこそ、とても身近で危険なのだともいえる。

まだ実家に住んでいた学生時代から、親との心の距離はずっと感じていた。僕は兄が二人いる三兄弟の末っ子で、そのせいか何をするにしてもとにかく兄と比べられた。(親に悪気はないのだろうが)

今となって思えば、僕はこの比べられるという行為が僕は嫌で嫌でしかたなかったのかもしれない。くちを開けば「また兄と比べられる」と思い、徐々に自分のことを家で話すことをやめたのかもしれない。

具体的にいつからというのはないが、気付けば親に話しかけることがどんどん減っていった。

これは僕の「息子としての怠慢と怠惰」だと認識している。
だからこそ親を恨んだり、憎んだりはしていない。

こんなことをいうと「親と話さないのは親がかわいそうだ」などと言われてしまいそうだが、そこに関して僕は、親にいまのぼくの心境や考え方を話して理解してもらおうとすることは余計な努力であり、お互い無駄な工数にしかならないと考えている。

今現在も親とあまり話さないのは、単に親がかわいそうとおもうからだ。
当たり前だが、親には親の考え方があり、僕には僕の考え方がある。

これは決して『無関心』でない。
僕なりの心からの親への『敬意』なのだ。

僕はただ親にはこれからも今まで通り生きていってほしいなと思うし、
これ以上僕の親として立派な存在でいようと努力をして欲しくないのだ。
しっかりと時代遅れのおじさん・おばさんになってくれればそれでいい。

今更あの田舎で何十年も過ごしてきた人たちに、時代の流行りなど気にしないでほしいのだ。

親は僕のことを無口で口数の少ない人間だときっと思っているが、僕は決してそんな人間ではない。
それどころか世間的にいうと、コミュニケーション能力は秀でてる人間だと自負している。

これは周りの友人界隈での僕への認識と大きな差はないという自信があるほどだ。一言でいうなら「コミュニケーションおばけ」といったところだろうか。

なので、僕はどんな人とも二人っきりでお酒を飲めと言われてもなんの抵抗もなくその場を乗り越えることができるし、根っからの末っ子気質のせいなのか、極度の寂しがり屋からくる「人間への興味」が著しいので、どんな人にも興味が沸く。

そう僕は人が好き。
特に女の子は素敵な生き物だと位置づけている。

もちろんすべての女性が好きというほど、僕は素敵な人間ではない。
・太っているのに胸の小さい女の子は戦争くらいきらいだし、
・「ねぇ聞いて!」と言わないと話し出せない女性は、クチャラーと同等だと思っている。

究極をいうと、上記に当てはまる女性たちと、僕の消費税が一緒なことに納得がいかない。くらいだ。

僕はとにかくお酒を飲むのだけれど、女性にはもちろんご馳走をする。
いや、ご馳走をさせていただく。

僕は女性の準備は男性以上に大変だし、わざわざ身支度をして一緒の時間を過ごしてくれるというだけで感謝だ。

そして女性は女性であるための、女性維持費とやらがやたらとかかる。

いちばん身近でいうと化粧がそうだろう。
化粧品の価格はもちろんピンキリだが、高いものが多い。
また化粧をせずに外出をすれば、やれ女子力が低いといわれる可能性もある。

もちろん化粧のいいところもある、最近では男性でもメイクをしたり、中性的なジェンダーレス男子とやらの存在も認知されはじめているが、やはりまだほとんどの男性はすっぴんだ。つまり、みてくれに関して言えばまだまだポテンシャル勝負が求められる。

生まれながらの見てくれで、この世に無数に存在する「イケメン」と勝負していくしかないのだ。辛い。

そういう面からみれば、女性の化粧は「逃げ」にも「武器」にもなる
最高のツールともいえる。

とはいえ、化粧は工数(時間)がかかる。

そのため、僕は女性と食事をする際にご馳走しているのは、
単に「食事代」をご馳走しているのではなく「化粧代」
ご馳走している認識なのだ。

この意識のもと、女性と食事をしているのだが、
もちろん化粧もせずに僕との飲みや食事に化粧もせずにきた
女性にはご馳走などしない(だろう)
(※過去にすっぴんできた女性など一人いないのでw)

すごい話がそれてるな…w

つまり親からの僕と、僕の友人界隈の僕への認識は大きくあるということが伝わればオッケーーい!!w


疲れたので次回に続きます←

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