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声を失って休職した話②

前回の記事への反響を受けて

前回の記事を投稿して、何人かの知人からメッセージをもらった。

このような状態になって、自身のことを振り返るために、もっている言葉で自身の状態を表現してみて純粋に、良かったと思った。
二十代前半の頃に比べて、さまざまな経験、それに伴う思考の数や幅が広がったことによって、自分のことを自分で書くその言葉に信憑性を見出せなくなっていた。
その理由ははっきりしていて、言葉に出来てしまうことしか表現できていないのだから、それはどこまで事実(自分の本心)なのだろうかと考えるようになったからだ。

ただ、自身の中にある、あまり思い出したくない出来事、その時の感情を言葉に出来ることは、そのものに向き合うことが出来るようになったともいえる。

どちらの考えも本たち(※1)から学んだものだが、私は前者に立場に立っているため、どこか心許なさを感じてしまう。
ただ、私自身がそうだったように、同じような状態で戦っている戦友たち、これからしんどい思いをすることになるかも知れない人たちの何かしらのヒント、息抜き、暇つぶしにでもなれば、とそんな尊大な態度で書くこともおもがましいが、日記くらいのテンションでなら、もう少し気を楽にして書けるような気がする。
そして、何より、私自身が忘れないために、そしていつか誰かが同じような状態になった時にどんなことを思っていたのか、どんなことをしてもらったら嬉しかったのかを思い出すために、書き記しておきたいと思う。

心身の状態

状態は平行線をいっているといえる。心療内科への受診は継続し、メンタル系の薬は副作用が出やすいため、自身の状態や懸念はしっかり伝えるように意識し、いろいろと薬を変更しながら経過をみている。
しかし、受診はしながらも、目には見えない疾患の難しさだと感じるのが、ちょっとしたことで、それもトリガーが分かりにくいものによって、波風が立ってしまい、状態が安定しにくい日が出てきてしまうことだ。

今は安定しているが、では二、三日後、今の状態が保証されるかといわれたら、それは分からない。ただ、これは皆同じといえば同じである。しかし、その保証の確信度合いが低いことは確かである。
そのようなものに対して、私自身で出来るようになりつつあることは、そのトリガーを症状が落ち着いた後に振り返ってみることだ。
天候だっただろうか、睡眠状態だっただろうか、食事だっただろうか、日中の過ごし方だっただろうか、ホルモンバランスだっただろうか、といろいろと予測し、その予測されたことに対する対処を出来る範囲でやっていくことだ。

天候は諦めるしかないかもしれないが、睡眠は眠剤を飲んでいれば、その時間を変えてみる。もちろん医師に相談することも一手だ。食事なら内容や時間を思い返してみる。日中、出不精になっていれば、無理のない範囲で柔軟をしてみる、コンビニに好きなスイーツを買いに歩いて行ってみるなど出来るかもしれない。女性であれば、月経等の絡みもあるため、その辺りの管理をしてみるなど、状態が安定している時に私は予測されること、対処法を考えてみるようにしている。

ただ、ダメな日はダメなのだ。
なので、潔く諦めることも選択肢の一つとして考えておいて良いと私は思う。
だって、人間だもの。

発声に関して

こちらも平行線をいっている。相変わらず、自分の声を聞くことはないが、稀に掠れ声が聞かれる瞬間がある。今までは月に1回のリハビリ通いであったが、今月から2回になるようにしてもらった。
医療職とはいえ、発声に関して専門的に学ぶことはないので、毎度毎度、「ほー」と学ぶことだらけである。普段、何気なく発している声はいろいろな器官や神経の共同作業なのだなと痛感する。
半年近く声を出していないということは、半年間、声を出すために声帯をまともに使っていないということでもある。
しかし、咳をする時にはゴホンと音が出る。そのゴホンは声帯がしっかり動いているからこその音なのだそうだ。そのため、腹式呼吸をしながら、咳を長く続ける(文章に書くとこうとしか書けない)こと、首周りの筋肉を柔らかくするストレッチをするなど、いろいろと試しているところである。

日々のこと

私の場合は、一人暮らしで、家事は出来る心身の状態にあるため、家事は大体、決まった流れで全てやっている。しかし、家事も一日中する訳ではないため、それ以外の時間の使い方に悩んでいる。
今は、出来る限り午前中に散歩がてら、買い物に出掛けるなどして、出来る限り身体を動かすようにし、それ以外は本を読んでいたり、動画を見ていたり、こうして文章を書いていたりしている。
しかし、もともと「働くこと」は大好きといっても過言ではなく、とにかく何かをしていることが好きなので、バイトは制度上出来ないが、ちょっとしたボランティア的作業、お手伝いなどがもう少し出来たらいいなと感じている。
実は先日、下記ような出来事があり、とても良い時間とエネルギーをいただいた。

このようなご縁からいろいろなところに繋がっていくことは経験済みのため、このようなご縁をもう少し、広げていきたいなと感じている。
しかし、声が出せないことは一つ、大きな障がいとなっており、いつもならいらない勇気を振り絞らなければいけないタイミングが多いことも確かだ。

しかし、自分から動けそうな時に動いてみると、意外なつながりが生み出されたり、そこまでのものではなくても、純粋に楽しい時間を過ごせたり、息抜きになったりと、状態の軽快に導いてくれる力を得ることは出来る可能性が高いので、状態が安定している今、声をかけやすそうな人に声をかけてみたりしている。

そして、上記のような経験をすると、こういう時に選択肢を与えてくれる人の存在は有り難いなと感じる。誘うのではなく、「こういう人もいるよ」という“あなたがいいと思えば手伝うよ”というスタンスが、自分のいいタイミングで、声をかけてもかけなくても良いと思える安心感をもたせてくれることを知った。
それには「待つことが出来る」ことが必要だなと感じる。
相手を自分に合わせるのではなく、相手に自分を合わせる。簡単なようで実は難しく、ついつい良かれと思ってやってしまいがちだが、それはエゴであることを私自身も常に意識しなければならないと感じる。

終わりに

と、そんな状態で良くも悪くもなっていないが、とにかく、焦らず、ゆっくり、と思っている。目に見えないということは、それだけ自分に正直であることが求められるのではないかとここ最近、気がついた。
目に見える傷であれば客観的に治癒状態を判断できるが、目に見えないものはその人が感じていること全てになる。
最近読んでいる本の中に出てきた文章でこれだ、と思うものがあった。

自分が知っていることを知るのを自分に許すことだ。

『身体はトラウマを記録する脳・心・体のつながりと回復のための手法』
ベッセル・ヴァン・デア・コーク

自分に正直であることは私にとってとても難しい。
本当に思い、感じていること、それを一つ一つ意識してみる課題を
今、突きつけられているのかもしれない。
そう思えば、今の時間も悪いものではないだろう。

けれど、もう少しやれることが増えるといいなと感じているのが、
今の私の正直なところだ(笑)


※1参考図書
『言葉を失ったあとで』信田さよ子/上間陽子
『身体はトラウマを記録する脳・心・体のつながりと回復のための手法』
 ベッセル・ヴァン・デア・コーク
  


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