「うまく書きたい私」と「うまく書けなくてもいい私」ー二人の「私」の居場所ー

初回を書いてからをいうもの、また少し日数が空きました。

毎日、書こう書こうと思ってはいたものの、やっぱりなかなか書けない…

前回4時間半もかかったものですから、仕事が始まるとなかなかそれほどの時間が作れないということも、原因の一つではもちろんあります。(やっぱりかかりすぎ!!今後テーマの軽重も考えられるようになりたい!)

でもそれだけではないのです。

ちなみに書きたい題材は結構出ています。

やはりどうしても「いいものが書きたい」という気持ちが邪魔している。

また出たな!こやつ。

前回も、「うまく書けないという不安から目を逸らさずにうんうん唸りながら書き続けます」みたいなことを書いたと思いますが、やっぱり「うまく書きたい」欲は強固なようです。

おまけに、前回の文章が自分の予想よりも多くの人に読んでもらえたものですから、「この題材だとみんな興味あるかな?」などと、読者を意識してテーマの良し悪しについてまで考えてしまっておりました。

もちろん多くの方に読んでもらって、反応をもらえたことはとても嬉しいです。

自分の頭の中だけにあった考えをアプトプットすることで他者にも開かれる。元々、私が出版や音楽が好きなのにもそういう要素があるからです。

何より時間をかけて書いたものなのだから、それを見てもらえるのはとても励みになります。続け甲斐があるってものです。(前回読んで下さった方、ありがとうございます!)

ただ、純粋に楽しみたいと思ってやっているのに、どうしてもうまく書きたいと思ってしまう自分に妙な居心地の悪さを覚えるのです。

これって、本当に純粋に楽しんでるって言っていい?本当は違うんじゃない? 

妙なむず痒さ。うしろめたさ。

じゃあやっぱり公開しなければいいじゃないか?という話なんですが、そう簡単な話ではありません。

だってツイッターなどは不特定多数に公開しているにも関わらず、「うまく書かなきゃ!」なんて思わないですもん。(最低限、誤字脱字とかは気にしますけどね。)

どうやら、人に見られることと「うまく書きたい欲」は、完全にリンクしているわけではなさそうなんです。

最近の自分の葛藤を見つめているうちに考えたこと。それは、

好きなことを純粋に楽しむという時にも、「うまくやりたい自分」と「うまくなくてもいいやと思う自分」が両方内在しているのでないか?
ということです。

例えば、プロ・アマ問わず、何かものを作っている人で、このように思っている人は多いのではないでしょうか?

うまくできなくても楽しい、けど作ったからには人に見てもらいたい。
・人に見てもらう目的で作っているが、作っている間は純粋に楽しい。

「人に見せるためにうまく作りたい」という気持ちと、「上手い下手関係なく純粋にその時間を楽しみたい」という気持ちは同時に両立しえるのではないか。

小説家、平野啓一郎氏は『私とは何かー個人から分人へー』(講談社現代新書)の中で、一人の人間の中には、複数の人格(分人)が内在していると唱えました。

かの有名な「分人主義」ですね。

要するに「分人主義」の視点で考えると、今の私の中には、「うまく書きたいなんて思わず楽しもうぜ!」という自分と、「うまく書きたいし、読んでもらいたい」という自分の、二人の「分人」が同時に存在しているという訳なんですね。

ちなみに「分人」は完全にはコントロールできません。

コントロールできていたら、とっくに「うまく書きたい自分」なんか消し去っているわ!!という話です。

なんとまあ、残念。

でも、自分の中に相反する考えを持つ自己がいるんだという事実を自覚するだけでも気持ちは軽くなると思いませんか?

「な~んだ、同時に二人の私が反対のこと言ってきてたのね。なんて迷惑なやつらなんだ。」とか言って。

原因が分かると気が楽になるもんです。

また、先ほど「分人」は完全にはコントロールできないと書きましたが、その構成比率を変えることはできます。(意図的にどれかを完全に消すとかができないです)

例えば、趣味で絵を描いている人が、SNSでイラストのアカウントを作って投稿していくうちに、いつのまにか「いいね欲しさ」が主な動機になって、絵を描くのが楽しくなくなってしまった。

そういう人なら、一旦絵から離れてみて、他に純粋に楽しめるものを見つけてそっちをやってみる。気分転換に映画でも見るかみたいな。

で、また気が向いた時に絵を描いてみる。(投稿してもいいし、しなくてもいい)

そのころには、「そろそろまた絵が描きたくなってきたなぁ」みたいに、
また純粋に絵を楽しめる自分の居場所ができていたりする。

そんな風にバランスを変えていくのがいいのかな、なんて思います。

色々またややこしいこと書いてきましたが、つまり私にとってnoteの再開は、「そろそろまた文章が書きたくなってきたなぁ」期という訳です。

純粋に文章を楽しみたい。

とはいえ、書いたからにはいいものを書きたい。

読んでもらえたら嬉しい。

もしかしたら今後このバランスが悪くなって、書くのがしんどくなってしまうかもしれない。そしたら一旦離れて、気が向いたら戻る、でいいじゃないか。

自分の心の動きを観察しつつ、「うまく書きたい」という自分の居場所を認めつつ、楽しめる範囲で書いていきたいなと思います。

結局、前回とほぼ似たような結論に至りました(笑)

しかし、「うまく書きたいと思う自分」がいるのはしゃーないと思えたこと。また、純粋に楽しむことと公開することが矛盾していないことなど、新しい気づきがありました。

人に見せようが、うまく書きたいと思っていようが、純粋に楽しんでいるって言ってもいいんじゃない?

というより、そう思ってやっていった方が気が楽なのでそうします笑

※ちなみに、これは人によってはこう考える人もいるでしょう。
「純粋な楽しみ」ということがそもそも幻想で、色んな思いを抱えた「不純な楽しみ」をもっと認めてもいい。そういう考え方もありだと思います。これは言葉の使い方の話だと思います。

とにかく何かを楽しむ時、色んな自分がいてもいい。
反対のことを言うやつがいてもいい。

実は、今回と似たような話で映画『花束みたいな恋をした』についても語れそうな気がしたので、また別の機会に書いてみようと思います。

では。






















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