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神ではなく、プロになる

「夏休みにたくさん本を読むぞ!」と意気込み、8月に10冊くらい本を買いました。積読の方が多いけれど、西野亮廣さんの「夢と金」と近所の本屋さんで衝動買いした「画商が読み解く 西洋アートのビジネス史」はお盆の内に読み終えました。

この2冊によって「だから私にとって書くことは特別なんだなぁ……特別視してる場合じゃないんだけど」と感じることができたので、書き残しておきます。

「小説家にならないと書けない」という思い込み

過去のnoteでも触れましたが、私は小学生の頃から書く仕事に就きたいと思っていました。書くことも読むことも好きだったし、書くためには小説家になるしかないと思い込んでいたためです。

幼い頃は「書く仕事」と言えば小説家で、プロの作家でなければ、文章を発表してはいけないと思い込んでいました。

かつて小説家になりたかった私は今、SNSマーケティング支援会社で書籍の編集をしています。

この思い込みは年齢を重ねるうちに解消され、将来の夢も小説家から編集者へと変化しました。書く行為そのものよりも、文章を通して情報を発信することに興味があると気付いたからです。

この赤入れは必要か、過剰ではないか

2023年現在、ホットリンクのインハウスエディターであり広報として、自社に関する様々な発信に携わっています。オウンドメディアの記事の編集やプレスリリースの作成が主ですが、最近はさまざまな文章のチェック依頼にも対応しています。

広報として一編集者として、得意な領域で力を発揮できるのは嬉しい限り。気合いを入れて文章に目を通し、赤入れしていきます。

まずはChatGPTに「誤字脱字のチェックと分かりにくい箇所、冗長と感じる箇所、その他気になるところがあれば理由も添えて教えてね」とお願いすることが多いです。

自分自身でもざっと読んで、気になったところがあればコメント機能を使ってメモしていきます。

最後まで読めたら、ChatGPTの指摘を適宜ドキュメントに反映し、自分が気になった箇所については「どう直したいか」「それはなぜか」をセットで記載し直します。「言葉のとらえ方が合ってるかな」「私が極端な解釈をしていないかな」という観点ももちながら。


その過程でふと我に返るのです。


この指摘、本当に必要?


……でも、変に遠慮して指摘を漏らし、読み手に誤解を与えるような表現を残したくはありません。やらない後悔よりやる後悔。ということで、「これは誤字脱字なのでマスト、ここからは私の思ったことなので適宜反映してください」のような言葉を添えて、依頼者に戻します。

戻した後は「ありがとう!」「丁寧に見てくれて助かった」と言っていただくことが多く、稀に「よっ!プロの仕事!」という言葉をもらってニマニマすることもあります。

迷いはしたものの、最終的には「やってよかったな」になることが多いです。

一方で、作業効率と丁寧さ(指摘を漏らさない、正しくわかりやすい指摘を入れる等)を秤にかけて、うーん……となることも多々あります。手は抜けないけど、過剰な丁寧さは不要。私の校正ってどうなんだろう…?

その問いのヒントになるような言葉が「夢と金」のなかにありました。

ハイスペックとオーバースペック

「夢と金」の第1章に「歴史的大敗から学ぶハイスペックとオーバースペック」という項目があり、次のようなことが書かれています。

満足ラインを超えた技術は「オーバースペック」と呼ぶ。オーバースペックは自己満足であり、お客さんの満足度にはカウントされない。満足ラインを超えた技術を、お客さんは判断できない。(中略)オーバースペックは「職人」の矜恃や自己満足であり、社会的には無駄骨になる可能性を多分に秘めている。

西野亮廣著「夢と金」

なんとなく、私がやっている赤入れや校正は、「オーバースペック」に当てはまるんじゃないかとドキッとしました。90点を91点や92点にするために、一人でひたすらこだわり続けているような…

では、この自己満足でしかない「オーバースペック」は、どうやって生まれたのか。その矜持、もとい自己満足は何に起因するのか。

その答えを見つけるヒントは、「西洋アートのビジネス史」にありました。

創造は神の御業。人にできるのは模倣だけ

「西洋アートのビジネス史」では、アートの変遷とビジネスが語られています。ざっくり言えば次のような内容です。

本著では、アートの経済的価値に焦点を当てて、アートの歴史を紐解き、作品よりもアーティストの才能に価値を見出す価値の転換がいつどのようにして起こったのかを、アートとビジネスの狭間に立つ美術商の視点から読み解きます。

翠波画廊代表・髙橋の3作目となる新刊が発売となりました

本書で紹介されている「アートの歴史」の最初期は、誰が描いたかよりも、何が描かれているかが重視された時代だったようです。

なぜなら、何かを創造するのは神の御業(みわざ)であり、人間は神の創造物を模倣するしかできないと考えられていたから。だから当時の作品は、作者不詳のものが多いのです。

今のアートの価値基準とは違いすぎてビックリ……ですが、ちょっと待てよと。なんだか、過去の私の「特別な人(プロとして認められている人)でないと書くという行為をしてはならない」という思い込みに似ている気がします。

もしかして私は、「書くことは選ばれし者のみに許された行為」という考えから、文章を校正するという行為も「神の御業」と捉えていたのかもしれません。

そして「心して校正せねばならぬ」と、必要以上の責任感とプライドを持ってしまっていた…?

神ではなく、地に足の着いたプロになりたい

とは言え、私はオーバースペックなものを極め続けたいわけではありません。むしろ、いつ何時でもハイスペックを提供できるプロでありたい。

自分にとっての満足ラインではなく、作業を依頼してくれたメンバーや、その先にいるお客様の満足にこだわりたい。

そのためにはまず、相手が何をチェックしてほしいと思っているのか、なぜそれを依頼されたのかなど、背景を知ることが必要です。それが分かっていないと、「きっとこうだから」「私はこうしたいから」と独りよがりな校正をしてしまいそうです。

自分本位ではなく相手本位になる。それをベースに記事の校正をして初めて、プロと呼ばれるに値するのだと思います。

私は神ではなく、地に足の着いたプロになりたい。

そんな決意を新たに、編集者になって12回目くらいの誕生日を迎えました。


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