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依存について。

711回目です。φです。

突然ですが、サンドバッグ生活を送っております。母親の毎日の文句に愚痴に、謎の苛立ちに…いや正直私は自分を「えらすぎる…!」と拍手を送りたい。

そんな状態で生きている私が思ったことについて、少々書いてみようと思う。なぜ依存するのか。あくまで私の視点であって、これがすべての人に当てはまるわけではない。当てはまる人の方が少ないだろうとも思う。


子離れしていない親ほど依存する。

まぁ明確だ。子離れしていないこと自体が、依存しているともいえる。子どもはいつまでも自分の子どもである。

それは間違いではない。DNAで調べても、役所のあれこれを探しても”子”という文字で説明できるだろう。それは事実。

けれど、いつまでも子どもは”庇護されるべき存在”としての子どもではない。成長し、親を追い抜く日が来る。子もまた大人になる。もしくは親になる。手を引かれないと歩けないような存在は、たったの十数年だ。遠くから支えられていたとしても、そのうち自分で立ち、支えられなくても歩くことができるようになる。

いつまでも小さな子どもではない。

どうやら子離れができない親にとってはいつまでも”自分が手を引かないと生きていけない子ども”なのだと思う。きれいに言ったけれど、”自分の言う通りになる子ども”でも間違いではないだろうと思う。親が選んだものを子どもは手に取る。子どもにはいつまでも決定権を持たせない。

子どもをコントロールするのは親だ、と思っているのかもしれないし、無意識にコントロールしようとしているのかもしれない。どちらにしても、子ども抜きに自分を語れないような状態だと、きっと子離れできない親になるのだと私は考えている。

子どもは自分のものだ、ということに関して。

自分の感情をぶつけてもいい。子どもは自分のものだから。

そう思っていることもあるかもしれない。子どもは自分の言うことを聞く義務がある。”子どもなんだから”。

子どもと自分が同一の存在だととらえている節がある。私はそう思う。

自分を一番理解しているのは子どもだし、子どもを一番理解してるのは親だ。この認知にも関わってくるのだと思う。

だからこそ子どもからの批判には耐えられない。反対意見は却下する。それか、「そんなことを言うなんて」と逆上する。自分の心と子どもの心が違うから。けれどそれを認めたくはない、という心理が働くのかもしれない。


良くも悪くも、親と子どもの関係というのは明確な形にならない。お手本があるわけでもない。チェックが数年に一回ある、とかでもない。個々の家庭によって異なって、「うちはうち、よそはよそ」という風に扱われる。この言葉は万能だと私は思う。

誰かの家庭を深く知っていたとしても、それを検証することはできない。それが真実であるとも分からない。また、自分が育った家庭が自分にどう影響しているのかすら、その環境しか知らない子どもにとっては”考えるということすら不可能”に近い。

十分に年を取ってものを考えられるようになって、誰かと深く話すようになって。改めて「自分の家庭とは違う」ということに気づく。すでにその時点で、自分のコアは出来上がっていることが多い。修正できたとしても、根本からひっくり返すことは難しいだろうと思う。

まぁ「心の中では否定するけれど、それを一歩踏み止まることは可能だ」というところまでは行けるかと思う。心と理性、と言うのでしょうか。

色々と書いたけれど、親は子どもを選べないし、子どもも親を選べない。合わない場合にはさっぱりと「親子関係ですね、でも合いませんね。それでは。」みたいな態度で、距離をとってもいいんじゃないかと思う。お互いの感情がそれでいいのなら、ね。

私は難しいだろうなー私は「さらば!」とさくっと言うとしても、追っかけてくるだろう。自分のものだと。実際、私がフィンランド行ったときは大使館にまで連絡してたしな…毎日メールとか来てたしな…。障がい者であることで、親が障がい者を管理するみたいな風潮もあるしな。難しいものですね、まぁなんとかするけど。

毒親から生き抜くHOW TOが、手に入りやすい時代になると良いな。なんだかんだ言って「家族は健全な関係である」が当然、みたいな空気がある。それは良いことかもしれないし、そうではない関係性の家庭から目を逸らしていることの表れかもしれない。前者であってほしいものです。

さて、連日「絶対に幸せになってやるからな!!!」と歯を食いしばっている私です。同じような境遇のみなさま、幸せになろうね。

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