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🇷🇺私的ロシア論🇷🇺④

●🇷🇺私的ロシア論🇷🇺④

ゴンチャロフ「日本渡航記」
(岩波文庫)


①から③はこちら(↓)



岩波文庫に、ゴンチャロフ(著)[井上満(訳)] 「日本渡航記」が入っている。

ロシアの作家・ゴンチャロフは、嘉永6年(1853年)、提督秘書として長崎に来航した。その時の様子を描いたのが、「日本渡航記」である。

嘉永6年、西暦1853年と言えば、
「イヤでゴザる、ペリーさん」と学生のとき語呂合わせで覚えた、ペリーの日本来航の年である。
アメリカもロシアも同じく四隻からなる艦隊で日本にやっていた。

ロシア政府を代表したのは、提督プチャーチンで、フレガート艦『パルラダ号』、コルヴェート艦『オリヴーツァ号』、運送船『メシニコフ候号』、スクーナー船『ウォストーク号』の四隻を率いて、長崎に姿を現した。この中の『パルラダ号』に乗っていたのが、ゴンチャロフであった。

「日本渡航記」の中で印象に残った箇所を抜粋する。旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めて引用する。

そうこうするうちに、奉行あての手紙を持参してきたのだと私達が云うと、何のためにたった一本の手紙を四隻の艦船に積んで来たのだと彼等は訊ねた。
この皮肉な質問の中には、我々の来航に対する子どもじみた疑惑と、我方に何か敵意がありはしないかという猜疑がほの見えていた。
私達は急いでその不安を除き、何もかも誠意をこめて率直に答えたのである。
だがそうするうちにも、あの柔らかな、平べったい、色の白い、柔弱な顔や、狡すくさかしげな表情や、ちょん髷や座った恰好を眺めていると、微笑を禁じ得なかったのである。

前掲書pp.54-55

日本人は立派な内政上の制度を作っている。すなわち老中は将軍なしでは何も出来ず、将軍は老中なしには何も出来ず、この両者は一緒になっても諸侯がなくては何も出来ない。こうして彼等の制度は、・・・・・・アメリカ人か、・・・・・・我々かがこれを顛覆することが出来ない間は、その人為的基底の上に存続するであろう。
だが彼等はわれとわが眼を頭巾でぴったりとふさいでいたので、今でも頭巾のかげから世界を見ようと思うことさえ恐れている。
我々が突然日本海岸に現れたために、彼等はどれほど驚かされたことだろう!
四隻の大艦船、巨大な大砲、多数の兵員、未曾有の強硬の提議、独自の行動!これは一体どういうことだろう?

前掲書、p.108

『例えば、お国には日常必需品が不足しているように見受けます。窓には紙が貼ってあるが』と提督は周囲を見廻りして、話して行かれた。
『そのために室内は暗くて寒いのです。外国人はガラスを持って来て、製造法を伝授します。ガラスは紙よりもよくて安いのです』

前掲書、p.325

「日本渡航記」を読むと、事前によく調べているな、という印象と、日本の文化への理解が浅いな、という印象の両方をもった。

高校の日本史では、あまり深く学ばなかったが、日本をいったん去ったペリーが、翌年1854年(安政元年)に再来日したのは、プチャーチンの来日の報に接したことが1つの理由だと言われているようだ。

ゴンチャロフの『日本渡航記』の他にも、時期は異なるが、レザノフの記録や、「北槎聞略」など、ロシアと日本の関係を考える上で貴重な文献が残っている。
現在の日露関係を考える上でも、ロシア的な思考を知る上でも役立ちそうだ。


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