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短編 | ラスコーリニコフその後

 なぜ私はここにいるのだろう?犯行前後は意識が混濁してしまった。しかし、理論的には瑕疵がなかったという思いは消えていない。なんとなくな日々がつづいている。今夜はこのモヤモヤした気持ちを何とか整理したいものだ。

 消灯の時間がやってきて、辺りの喧騒がおさまった。私は自分と向き合うことにした。


 まず、もう一度、私の殺人理論に誤りがなかったかどうか、確認してみよう。

 食うに食われぬ前途有望な1人の学生がいる。彼にはカネがない。その一方で、何の未来もない老いぼれババアがいる。その女は使い途のないカネをため込んでいる。

 シラミのような老婆のもとにたまったカネを、前途有望な貧乏学生に分配すれば、社会的に有益なことは間違いないではないか?
 なぜ、世の中にとって不要な老婆を殺してはいけないのだろう?
 人を殺すこと自体、何がいけないのだろう?


 歴史を振り返ってみよう。リュクルゴスにしろ、ナポレオンにしろ、歴史上の偉人は、「人を殺してはいけない」という社会通念を踏み越えて、多くの人々を殺してきたではないか?

 たった1人2人の人間を殺しただけで、私のように監獄に閉じこめられるのはどうも納得できない。

 私はかつて、「殺人理論」に関する論文を書いたことがある。

 人間には2種類ある。1つは社会のルールに従って生きていかねばならない階級。もう1つは、社会のルールを踏み越えて、より良い社会を実現するために、時には人を殺すことも許される階級。

 前者は愚民である。ルールに縛られながら生きるしかない。しかし、後者は違う。現在のルールがどうであろうと、それを踏み越えて、ルール自体を変えてしまうことができる。いわば、ニュートンのような天才である。

 後者の階級とて、必ずしも人を殺すわけではないが、その時代の人々が微分法という新しい学問的発見に迫害を加えてきたならば、殺す権利を有する。何故ならば、微分法は真理であり、どんなに受け入れがたくても、それを後世に伝える義務があるからだ。


 この件に関して、ポルフィーリーと激論したことがあった。

 彼は言った。愚民と天才を見分けるような目印はあるのか、と。

 もちろんそんなものはない。

 さらに彼は問うた。「では、本当は愚民であるにもかかわらず、自らを天才だと思い込み、人を殺す者がいたらどうするのか」と。

 もちろん、愚民は愚民だから処罰されるだろう。当然のことだ。そもそも天才というものは、些末なことで人を殺すことはない。永遠の真理を妨げる者が現れた場合に限り、人を殺す権利があるに過ぎない。個人的な恨みで人を殺すなんてことはないのだ。

 ポルフィーリーは言った。
「なるほど。天才といえども、好き勝手に人を殺すわけではないということですな。が、しかし… …」

 ポルフィーリーは続けた。
「永遠の真理とは何でしょうね。仮にそういう真理があるとしたら、早晩、誰かに発見されることでしょうに。ニュートンやライプニッツの学説が、たとえ彼らの存命中に認められなかったとしても、真理が消えることなどないではありませんか?天才といえども、抵抗勢力を取り除く必要はないじゃないですか?」

 私は答えた。
「真理が真理として、確証されるまで、それでは時間がかかり過ぎます。抵抗勢力は即座に取り除かねばなりません。虚偽の中で生きる人々は、不幸です」


 私はいまだに、シラミの老婆を殺めた第一の殺人については反省する気がしない。私が自責の念をもつのは、第二の殺人だ。

 シラミの老婆を殺害するとき、私は不覚にも戸締まりすることを忘れた。老婆殺害後に、いつの間にやら忍び込んでいた、呆然と立ち尽くす娘がいた。気がついたときには、渾身の力で斧を振り落としていた。

 仮に私に罪があるとすれば、娘を殺めてしまったことであって、シラミのような老婆を殺害したことではない。


 ここまで振り返ったとき、不意にソーニャの悲しげな表情が脳裏に現れた。

 ソーニャ。私がこんな境遇になってしまっても、献身的に尽くしてくれている。

 ここで、こんなことを考えた。理屈抜きで、私はソーニャを愛してしまったが、彼女は愚民だろうか?、それとも天才だろうか?、と。

 申し訳ないが、彼女はどう考えてみても、私が自分の論文の中で書いた意味での天才ではない。
 生活のためとはいえ、娼婦という堕落した職業を生業としている。

 その父親のマルメラードフさんはどうだったろう?
 殺人実行前に、あの飲んだくれマルメラードフさんとはじめて出会ったとき、意気投合したのはなんだったのだろう?

 マルメラードフさんという、いわば1人の「愚民」が馬車にひかれて死んだとき、身を引き裂かれそうな悲しみに落ちたのは一体なんだったのだろう?


 私は愚かにも、人間を「愚民」と「天才」という二分法で考えてしまった。そこに傲慢さがあったのかもしれない。

 きっと、どんな人間の中にも、愚民的な要素と天才的な要素が、分かちがたく絡み合っているんだろう。

 今の私には、理性的な解決ができそうにない。いや、ひょっとしたら、人間の存在理由など、そもそも理性を越えたところにあるのかもしれない。


 くだらないことを考えたものだ。もう夜更け近くになっている。
 いつまで、このモヤモヤした気持ちがつづくのだろう?

 とりあえず、生きている限り生活がある。ソーニャがいる。。。

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