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【随筆】烏は光りものを持ち帰る

 先日、あまりにも広告が鬱陶しかったので、YouTubeのPremiumに入会した。まんまと、である。私はあの構造も珍妙なものだなと思い、世の中のおかしなパズルの境界線を眺める心地だった。それというのは、YouTubeは巨大プラットフォームなわけで、常におびただしい数の人々が寝転がりながら、また無謀にも歩きながら、行儀悪くも食べながらYouTubeに首を突っ込んでいる。そのような人類の集う場所だから、おたくも広告流したら客増えて儲かりまっせ、というふれ込みである。要は利を謳っているわけだ。それにも拘らず、拘らずである。そこに集う人間は広告を疎ましく思っている事実がある。これを手の平を優雅に返して今度はYouTubeは個人に訴求するのだ。
「広告って鬱陶しいでしょ? 月額これこれで広告消しますよ」と。
 あっちで旨味を推しながら、その旨味を消し去ることで別の商売をする。よくよく考えるとものすごい二枚舌。妙だなぁ、と思うわけです。私はその広告を消し去るサービス側の顧客であり、よく分からない商売に関わった形になる。釈然としないでもないが、このように私は利便と快に巻き取られる。

 と、これは本題ではない。私は暇があると本屋に行って店内を歩きまくるのだが、それは勿論本が好きだからである。これが私の昂揚でもあり安らぎでもあったのだが、少々これを問題視している。欲しい本が増えて仕方がないからだ。文庫と言えどピンキリで、税込み六百円台のものもあれば、三千円に手が届きかけるものまである。講談社文芸文庫など、神々しいまでに異彩を放っている。表紙など高級和菓子の包装かと見紛う如く上品な。艶消しに箔押しである。先日も発売されたばかりの吉本隆明詩集『わたしの本はすぐに終わる』を購入した。これは税込みで三千円を超えた。もう一度言うが、これは文庫本である。購入すると、なりは小ぶりの宝物である。当然ながら私も貧しい俗物である。だから価格の効果が無いと言えば嘘になる。この価格の香料も効いてはいるだろう。しかし実際になんかええのである。
 他方、文庫にも安いものもゴロゴロしている。しかも名著名作が、である。読む時間と価格を考えると、これほど文化的でコスパの良い愉しみも貴重である。数百円の本でも、お目当ての本を手にすると、秋晴れの空の下、涼やかな風に吹かれたような心地さえしてくる。そんな感じで生きていると、気がつけば家の中、居場所を本に譲らなければならなくなる。

 つまり、この嗜好には収集癖のようなものが混ざっていることは否定できない。未読の本もあって、読みたい読みたいと思いながらも、新参がどんどん現れるため、興味の優先順位が移ろい、ままならないのである。そして面倒なことに、このような疾うに飽和して溶け切らない状態がたまらないという悪癖が拍車をかける。

 そういえば先日の帰途、ポケットにスマホを突っ込んで、YouTubeでとあるラジオ番組を聞き流していた。すると司会が「きしゅう」「きしゅう」と頻りに言っている。奇襲のことか、いや奇習か、などと思っていると、収集の別字である蒐集のことであった。これを「きしゅう」と誤読んでいたのだった。
 確かに、熱心に好きなものを蒐集する人はとても多い。自分の人生にそれが食い込み、集めたものに埋没し、それが心地よいのだろうな、と幸せだろうけれど自分とはまた別の人たち、という気でそのラジオを聴いていた。ちょうど家に着き、部屋のドアを開けて愕然とした。この本どもに浸食された部屋。私は収集の妖に祟られているのではないか。その日もリュックには購入したばかりの、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、それから鶴見俊輔の『限界芸術論』が入っていたのである。蒐集はその実、奇習なのかも知れない。

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