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ep.8 ペーパースイマー | サントリーニ島の冒険

目を覚ますと朝の9時であった。バルコニーへ出ると少し遠くに海が見える。視線を右に落とすと美しいプールもあるではないか。この日も朝から風が強くフェリーは動きそうにない。ミロス島で海に入れるかもしれないと買っておいたゴーグルも、日本から持ち帰った小学生時代の水泳帽も、ギリシャに着いてからまだ一度も使えていなかった。

チェックアウトまでそれほど時間もないし、肌寒く、プールには人気がないしで、ちょっと迷うけれど、迷うならゴーだ。ここは次の週末にまた来れる場所ではない。さっと水着に着替えてタオルを抱え、レセプションに行くと昨日とは違うピンクのパーカーのお姉さんが座っていた。プールに入ってもいいかと聞くと、泳げるのか聞かれたので、あまり自信はないものの、大丈夫そうに聞こえるイエスで答える。

水泳は子どもの頃習っていたが、これまでプールでしか泳いだことがない。その後はプールへすらほとんど行ったことがない、ペーペースイマーだった。水に入ったら紙のようにペトペトになってしまいそうな響きである。せめてトイレットペーパーではなく、和紙がいい。そんな私が自然環境で泳げるようになりたいと、再び水泳に心ひかれるようになったのは、ロンドンに来てからである。

ある時、ロンドンで一緒に暮らしていたハウスメイトが「Lido(リドー)に行ったことはある?Lidoで泳ぐのは、すごくロンドナーらしいと思うよ。」と教えてくれた。まだまだロンドン生活の浅い当時の私にとって、ロンドナーらしいと言われれば、兄を追いかける妹のように見よう見まねでもやってみたいのであった。Lidoというのは、どうやらアウトドアの自然のプールだという。果たしてどんなものかと行った先には、私であれば「池」と呼ぶであろう遊泳場が待っていた。

「Competent Swimmer Only(泳げる人のみ)」と書かれた看板を横目に、不安な気持ちのまま受付を済ませた。前回泳いだのはいつだったか思い出せないくらいの時が経っている。目の前に待ち受けるは濁った水で、深さもわからず、夏が終わりそうなロンドンでその冷たさは想像するだけで十分だった。

ハシゴを必要以上に握りしめ、水面に片足をつける。下半身が浸かったところで、なかったことにして帰りたい気持ちになった。がしかし、私が誘った友人は既に池を泳ぎ笑顔で私を待っている。全く足がつかないので、おそらくこの池はそれなりに深い。怖くて怖くてハシゴ周りにめぐらされた鉄の手すりからその手が離せない。

そんなペーパースイマーを見つけた監視員の一人が「君は泳げるのか?」と声をかけてきた。私が「泳げます」と全く説得力のない回答をすると、監視員は「では泳いでみてください」という。そう。私は水に浸かる人ではなく、泳げる人であることを証明せねばならない。あの「Competent Swimmer」の看板を見た上でここに入ったのだから。エイっと手すりから身を離し、必死の平泳ぎをして別のポールまでなんとか辿りつく。すると監視員は「あぁ、泳げるんだね。ちょっと心配だったから」と声をかけてくれた。

楽しそうに泳ぐロンドナーの中に一人、ビビりまくりで池の中、ポールにつかまっていた私は逆に目立っていたことだろう。その後も結局あまり楽しめず、早々に池から上がって胸をなでおろしたことを覚えている。

しかし池で泳いでいるロンドナーたちはとてもかっこよく見えた。その後に住んだオクスフォードでも、水泳禁止と書かれた湖でワイワイ泳ぐ人たちや、白熱したカレッジ対抗ボートレースの後に、開放感でテムズ川に豪快に飛び込む学生たちを見て、私の泳げる人への憧れはますます募った。そしてもう一人、大きな影響を受けたのは、そこで一緒に住んだハウスメイトである。彼女はいつも川や湖など泳げるスポットを探していた。何かをすることの楽しみを真に知っている人の近くにいると、その影響力のパワーは絶大だ。それほど自然の中を泳ぐのは楽しいのか、と私も興味をそそられた。

そしてようやく話を元に戻すと、私は今サントリーニ島にいて、目の前には誰もいないプールが待っている。もちろん心配してくれる監視員もいない。水に足をつけるとまぁ冷たい。プールも深そうだし、やっぱりこのまま乾いた水着のままで引き返そうか。でもこの人工プールで泳げなければ、海では泳げない。このままでは一度も泳がずにギリシャを終わってしまうかもしれない。

手すりにつかまりながら、リトマス紙のように半身つかる。そして勢いで全身入る。すると意外にもギリギリ足がついた。これならなんとかなりそうである。短い距離を泳いでみる。大丈夫そうである。だんだん慣れて、平泳ぎ、クロール、バタフライ、背泳ぎと、スキンケアのトライアルセットを試すように、短くちょっとずつ、体が覚えているか試してみる。

子どもの時大好きだった深もぐりはできるだろうか。グッと勢いをつけてもぐり、プールの底にタッチしてみる。まだ怖い。でも少しずつ練習して、海で泳げるようになりたい。ささやかな自信を取り戻したところで、プールから上がる。チェックアウトの時間が近づいているはずだ。

ブルブル震えながら部屋に戻り、温かいシャワーを浴びる。このホテルを出る前に今夜の宿を決めた方が良いだろう。レセプションにはピンクパーカーのお姉さんがいて、今日の夜も泊まれるかと尋ねてみると、大きな声で「Mama!」と叫ぶ。ついに例のボスの登場なのか。どこからか、黒い服の髪を束ねた女性がぬっと現れる。いや、黒い服に見えていただけかもしれない。実は思い出せないが、ここはボスの登場なのでそういった演出としよう。彼女たちは値段の相談を始める。そして提示された価格は、こっそり事前に見ていたウェブサイトのものよりだいぶ高かった。さすがのボスである。

「ちょっと考えます」といったんボス戦から身を引いた私は、他のホテルも検索してみる。すると赤ちゃんの泣く声が聞こえてきて、ピンクパーカーの女性と、Mama(ボス)があやしている。一生懸命あやす声を聞いていると、急に親しみを感じた。赤ちゃんに優しい顔を見せる人にわるい人などいない。安いホステルに泊まって他の旅人に出会うのもいいかと思い始めていたが、やっぱりここに二泊することにする。

ウェブサイトに載っているこのホテルの価格を見せ、この値段で泊まれないかと尋ねる。再び「Mama!」と叫び声が上がり、今度は私が赤ちゃんにぎこちない変顔を見せる中、二人はまた相談を始める。その結果この建物ではなく、昨日はじめに訪れた古そうな別館の方に行けという。てっきりここに連泊できると思っていたが、交渉の余地はなさそうである。

別館へ向かうと、昨日は閉まっていた入口のドアが今日は開いている。細身のデニムの女性がHow are you?と声をかけてくれた。意外にもギリシャに来てから、そう声をかけてくれたのは、最初に空港まできてくれたドライバーだけで、そのHow are youはなんだか心にしみた。

女性は掃除している途中だったが、11番の部屋まで案内してくれた。テキパキと動く彼女は、明日のタクシーは必要かと聞いてくれ、親切にタクシー会社に電話して一応値段も確認してくれた。部屋は青を基調とした、私がサントリーニにイメージしていたような素朴な美しい部屋だった。ベッド、サイドテーブル、カーテン、デスク、バスルームの床のタイルと青で統一され、繊維のボソボソが見える掛け布団やバスタオル、取っ手が片方取れたクローゼットにこの部屋の時間の経過を感じとる。ここが好きだ。2階にあたるこの部屋は忙しい通りに面したバルコニーがあり、初日にお世話になったあのホテルとその奥にエーゲ海も望むことができた。


本日もまずは情報収集からスタートである。寒いので毎日同じトレーナーを着ており、昨日の海ですっかりデニムも汚れてしまったため、ちょっと洗濯したい気分だった。隣にはLaundry(ランドリー)と書かれた赤の看板の店。ニコニコした女性がカウンターに立っている。全く値段が書かれていないので尋ねてみると、空港の保安検査場のトレイのようなものを差し出し、これに入るだけの洋服で€20だという。あっさり諦めがつき、あのトレーナーには8日間頑張ってもらうことにする。

店を出ると、初日泊まったホテルの屋上でシーツが干され、強風になびいている。斜め向かいには、店先にフルーツや野菜の並ぶ小さな食料品店があり、何度か見かけた店主のおじさんは今日も片足ギブスで時々出てくる。滞在3日目のこの瞬間、私はここの人たちの暮らしを急に身近なものに感じた。あの風になびくシーツの一枚は私も使わせてもらったものだ。あのレストランの客引きおじさんは、今日もあの場所に立つことだろう。バスステーションには、黒のデニムジャケットの彼女が肘をついて座っている。あのホテルにはMamaがいる。毎日同じ場所に、同じ人がいる。それがサントリーニだ。



ここまで読んでいただき、ギリシャ語のありがとう!Ευχαριστώ(エッフハリストーという発音に私には聞こえます)。

洗濯をいつしようか迷っている土曜日の朝です。雨続きで外には干せなくなりました。

「サントリーニ島の冒険」は、100ページを超える手書きの旅誌をもとに、こちらnoteで週更新をめざしています。

この旅に出た一つの理由に想いを馳せる、一つ前の記事はこちらです。

これまでの記事はこちらに綴っています。お時間があればぜひ訪れていただけますと嬉しいです。