「日本民族の情緒性」への同族嫌悪

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 私は貴族の優雅さと、武士の勇敢さの極稀な連結の結晶である日本文化を誇りに思う。だが一方で、遂に日本民族は過剰なまでの情緒性を補いうる論理性を身につけるに至らなかった。私は平安文学の胸焼けのするようなまでの優雅に憧れてやまないが、同時にその優雅に、同族嫌悪のような複雑な感情を抱かざるを得ない。私が守りたいのは日本民族ではなく、日本民族の心根たる文化であるにも関わらず、これは随分と皮肉な話である。日本民族は世界が悪意と打算で動いているという自覚が足りなさすぎる。

 人間の論理性を養う父は他ならぬ母国語である。怠惰な私は自殺の代わりに言葉によって世界の本質を掴むことを望んだ。その想いは今とて変わっていない。私にとって表現とは、論理によって現実と寸分違わぬ世界を言語で築き上げることであった。それを成し遂げた時、未だ見えぬ完成された「私」は確固とした存在感を持って現実に生まれる筈だと信じた。

 一方で私は、とうとう言語つまり母国語以外の媒体を用いた表現を好むことはなかった。言語という論理性の枠を逸脱したものに対するある種の不安が拭い切れなかったのである。
 そこには不慣れという問題もあれば、幼少期に体験したピアノに対する挫折も関係しているのであろう。だが私には言葉以外の手段で世界の本質を掴むというビジョンが描けなかったのである。考えるとは言語であり、言語とは則ち表現であり、世界の構築に他ならない。これが私の表現における倫理であった。

 こういった価値観を持つ私は日本の(というよりも東洋の、と言うべきか)質素で小世界のような美意識に迎合できない自分を感じる。禅にも通じるその心は愛するが、それだけでは満足できない。愚かにも論理の大伽藍を求めてしまう性分なのである。

 三島由紀夫は経済への深い理解とバランス・オブ・パワーの知識を兼ね備えていた。三島とまではいかなくとも、この二条件を満たす作家が果たして今の日本に居るのだろうか?これには日本民族全体の愚民化やオルテガが批判した「専門人」の跋扈という側面もあるのだろうが、そもそも日本民族の論理性の欠如という問題がなければ事態はここまで深刻化していない筈である。ここまで現状認識がなっていないようでは論理で「世界」を構築することなどできない。

 民族性という生まれながらの足枷を恨んでもこれはどうしようもない問題なのであるが、それでも限界への苛立ちというものは拭い去れるものではない。祖国を愛するということは、その欠点をも不満を抱きながら一身に背負い込むことなのであろう。

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