道徳的人間としての私と政治

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 思えば私は、幼少より道徳的人間であることによって多数派の人間から自我を保ってきた節がある。その関係性は受験によって一度崩壊し、断念された。私は政治を巡る議論によってこれをもう一度回復しようと試みてきたのかも知れない。これはある意味他罰的な行動とも考えられよう。私はニーチェに共感しながらもその超個人主義とも言える哲学とは距離を保つ。社会秩序を保つ為のルサンチマンの体系である道徳はやはり必要なのである。

 私は自身の立場が政治思想に与える影響を警戒する。政治への議論と参加を他者への奉仕の手段と捉えるのが私の立場なのだ。とはいえ立場・思考が自身を育んだ環境・欲望から縛られないことなどありえない。政治を通して私は他者へと歩み寄り、和解することを画策する。

 ポストモダニズムは個人のアンガージュマン(社会参加)を否定し、あらゆる価値観を相対化させた。そうしてミクロな方向へと複雜化していく社会では人々は手を取り合うことなく、国民国家を含む共同体はその仕組みを維持できなくなる。その結果引き起こされるのは個人主義と資本主義、及びその末路としての拝金主義、物質主義の暴走だ。格差と貧困が蔓延し、人々が互いに傷つけ合うギスギスとした社会となる。社会を社会たらしめ規範を与える「父」は相対化によって殺される。

 近年世界規模での盛り上がりを見せているポリティカル・コレクトネスの運動もこうしたポストモダニズムによる価値観の相対化が背景にあると私は見ている。

 我々人間はまず家族があり、職場があり、市町村、都道府県、国民国家、という風に同心円状に共同体を形成している。政府がどうとか、国民がどうとかと語るのも大事だが我々に最も影響を与えるのは自分たちの生活圈だ。私はこれらを一括りに共同体と呼んでいるが、中間共同体と、国家のように大きな共同体とでは厳密にはその果たす役割は異なる。

 私がポリティカル・コレクトネスを警戒するのは差別という道徳的問題を政治的問題へと還元されようとしていることに対する恐怖からである。とはいえ、これも芸術と政治の関係がそうであるように、あらゆる思想・思考体系が政治性を帯びてしまうという近代という時代の宿痾なのかも知れない。

 近代にでっち上げられた「人権」は道徳的色彩を帯びながらも、国民国家に保障されてようやくその役割を果たせる架空の概念であった。近代という貨物列車の到来によって道徳は中間共同体から剥奪され、「人権」なる地に足つかぬ政治理論の玩具とすり替えられてしまったのである。

 人々はマズローの欲求段階説のように生きてはいない。欲望は同時に幾つもの方向に対し抱かれるものなのである。よって自己実現にはその欲望に優先順位を振り分けることが必要となるだろう。私としてはまず、近代に奪われた道徳規範を人々に再びもたらす「父」と共同体の復活、その結果としての近代の超克を目指す立場である。

 人と人が分かり合う為の第一歩、それは「人と人は分かり合えない」という痛みを互いに分かち合うことである。これは大変困難な道程である故に、その対策として秩序を維持する暴力装置としての「父」が必要なのだ。私は偉大なる暴力装置としての「父」、ひいては天皇によってその名誉を認められる国軍の復活を願うものである(誤解を受ける恐れがあるので註釈を加えるが、ここにおける国軍を指揮するのはあくまで内閣総理大臣である)。

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