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生きて生き抜きたいハムレット(劇評)

去る4月のシアターカンパニー・カクシンハンの公演。ハムレットを見ての劇評を公開しようと思う。
これは、ほぼ日の学校での講師、山口宏子さんによる「劇評塾」へ提出したものである。まったくの素人劇評ではあるが、山口先生からの我々に対する総評に「劇評を得ることでカクシンハンのハムレットはこの時代に記録される・・」とあった。カクシンハンの素晴らしさをSNSでは拡散しているものの、それもいつかは霧散してしまうだろう。それなら、いっそ素人劇評でもよいから人目に触れさせてみよう。
そう思っての投稿である。先日みたばかりの「冬物語」についてもげきh

生きて生き抜きたいハムレット

 今回が始めてのシェイクスピア作品を観る機会だった。グレースケールの舞台装置。しかも、灰色の薄汚れた現代日本の町並みと舞台中心にあるのは、斜めにわたる一本の横断歩道。フードをかぶったパーカー姿の若者が、横断歩道をスマートフォンを見ながら渡る、傘を差して渡る、ただひたすらに集団となって渡る。その集団はいつしか小走りから全力走となって舞台上をぐるぐると巡っている。その中に、やはり黒いパーカー姿でフードを下ろし、小さく縮こまる若者がクローズアップされていく。想定していなかった冒頭の風景にすこし不安な気持ちを持ったが、ああ、やっとハムレットが現れた。フードで顔が見えないものの、彼に目もくれず走りまわる集団とは一線を画す存在感。ハムレットが感じる周囲からの疎外感、そして周囲への不審、自分の未来への不安、孤独感、それらがひしひしと感じられた。
 その後いよいよ何度も声に出して読んだ冒頭のセリフ。相変わらず横断歩道が斜めに走る舞台にも関わらず、「誰だ?」の一言でそれが一瞬にして城壁へと変わった。見事に中世のデンマークへと気持ちが飛んでいった。
 大仰な舞台装置は現れず、その代わり小道具の一つ一つが現代のものだ。兄である先王の跡を継ぐクローディアスはスーツ姿。そして就任演説よろしく、その口上はビデオカメラからスクリーンへと伝送される。レアティーズはラップ調に歌う友人に送り出され、オフィーリアは「海辺のカフカ」を読む。少々のことでは屈しないというよりおきゃんなイメージ。だがそれが、後半でのハムレットとの別れ、父親の死に接して一気に精神が崩壊してしまうギャップが、オフォーリアの繊細さ儚さをさらに強調した。小道具でもっとも目を引くのがパイプ椅子。そのカチャカチャという安っぽい響きと、さらに終盤での毒入り酒の杯。なんとステンレスボウル。投げ捨てられたときの「こいん」という響きの安っぽさ。あえて重厚なものを使わないようにしているのだろう。ローゼンクランツが被っていた帽子も、ハムレットと戯れるための憎い小道具だった。
そして有名なハムレットの独白。私は旧来からよく聞く「生きるべきか、死すべきか?」がしっくり来ると思う。冒頭の若者の集団、陽気に遊学に出るレアティーズ、ドイツからやってきた茶目っ気たっぷりの学友たち。従来はハムレットも彼らと同じく、若者らしく享楽的に暮らしていたであろう。いっそ叔父の陰謀も知らなければ、父の死と母の不義にめそめそするだけでよかったが、父の亡霊に復讐を託されてしまってからは、その一切が呪われてしまう。このままイギリスへ送られ殺される運命に甘んじるか?いや死ぬことは恐ろしい、自分は生きたいのだ! 私はこの独白をこう聞いた。
 登場する若者は、みな生きて生きて、生きぬきたい者ばかり。なのに、非業の死を遂げる。この戯曲は、ただただ生きていたいと思う大勢の若者が、あっけなく死んでいく。ここで、私の意識は現在へと引き戻された。希望を持って生きていきたい若者が、不安と不審に苛まれてあっけなく死んでいく。
 シェイクスピアという語り手の力を借りて、現在に生きる若者の心の有り様をまざまざと見せ付けられた。今はただ、無念に死んでいった若者達を心に留めて、日々出来る限り力を尽くして生きていこうと思うだけだ。
平成30年4月15日観劇

作品データ
カクシンハン第十二回公演「ハムレット」
演出:木村龍之介
翻訳:松岡和子
作:シェイクスピア
4/14(土)-22(日)
シアターグリーンBIG TREE THEATER

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