夢野久作『瓶詰地獄』を読んで
何の前情報もなしに『瓶詰地獄』と目にして、ホルマリン漬けの贓物を想像していたのは昨年の3月頃。そんな妄想を勝手にしていたものだから、実際の内容との差に驚くことになった。
しかしたしかに「地獄」はそこにあった。
以下、簡単なあらすじ。
遭難し、孤島に漂着した兄(11歳)と妹(7歳)。
それでも食べるものにも困らず、身体を侵すような害虫もいない。
その島は幼い2人にとっては天国だった。ときに自然の脅威にさらされることはあっても知恵を出し、助け合って平和に楽しく暮らしていた。
しかし歳月は天国に「悪魔」を呼び込む。
さて、悪魔とはいったい……。
夢野久作は書簡(手紙)を巧みに滑り込ませ、作品を構成していることが多い。それは本作にも見られ、冒頭に「蝋で封をされたビール瓶が3本漂着した」という旨の書簡が配置されている。
漢字がずらりと並び、柔らかさが感じられない表現に私は一瞬「うっ」となってしまった。少しだけ引用してみる。
上記は役場から海洋研究所に宛てた手紙の一部。
「書簡らしさ」を出すためなのだろうが、いかめしい印象を受ける。
ここでは引用していないが手紙の中に「不可能と被為存候」という表現もあって、「ぞんぜられそうろう!?」と思わず口にだして読んでしまった。
さて。内容について。
幼い兄妹は「聖書」をよりどころとして生きていた。それは以下の文からも分かる。
ところが兄はある日、聖書を燃やしてしまう。
私は敬虔なクリスチャンではないのでその行為の恐ろしさは想像するしかないのだが、やはり罰当たりな気はする。
何よりもずっと大切にしていたはずの聖書を焼いてしまった明確な理由は作中では示されていないが、「ある罪の意識」から逃れるためだったのではないか、と思う。
兄が聖書を焼いたとき、開かれていたのは「詩篇」の箇所だった。
それがなんとなく気に掛かり「詩篇」について調べてみると、旧約聖書に収録されており150篇もあるという。
本作のキーになるような表現は何かないかな?と思い、Wikisourceにて口語訳された詩篇一覧を眺めていると第25篇の一部が「兄」の心情にリンクするように感じられた。気のせいかもしれないが。
では兄の「罪」とは何か。
作品を手掛かりに考えるなら、妹の成長と関係がある。果実が熟していくように、妹は歳月の経過とともに「奇蹟のように美しく、麗沢に長って」しまった。花の精のようにまぶしく、悪魔のようになやましい姿。
そして兄は妹を妹としてみなせなくなった自身の「不実」を呪い、苦悩を重ねて神に「死にたい願いが聖心にかなうなら稲妻にて命を奪ってほしい」と祈ったがそれは叶えられることはなかった。
「自分が生きていること」が罪悪だと神に語っていた兄。
しかし死を願っても叶えられることはなく、神などいない!と激情に駆られた結果……聖書を焼いたのではないだろうか。
あるいは聖書を始末することで神の存在を否定し、インセスト(近親相姦)というタブーを越えようとしたのかもしれない。
この物語のタイトルは『瓶詰地獄』。
「詰める」には
・途中で何かで遮って先に進めない状態にする
・限度や限界を設けてそれをこえないようにする
・逃げ道がない状態にする
・議論などを結論が出る方向に進める
……などの意味があるが、作品の筋立てはこれらの意味全てを含んでいる気がした。
かつては無邪気さゆえに天国のように思えた暮らし。
しかし「沈淪の患難」に見舞われてからは、いつ終わるともしれない苦悩に満ちた遭難生活となった。それは密封された細長い「瓶」に似ているのかもしれない。
(参考)
『文豪たちが書いた耽美小説短編集』より、
夢野久作『瓶詰地獄』, 彩図社文芸部編纂.
日本聖書協会, 1955, Wikisource, 「口語旧約聖書」より「詩篇」, 2023年4月29日取得,
(https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)).
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