何を語るかよりもどのように語るか 熟練した日本語の美しさについて

非言語コミュニケーション論としてメジャーなメラビアンの法則によれば、感情と内容が矛盾したコミュニケーションを受ける時、人は何からの影響を大きく受け取るかについて、
話の内容 7%
声のトーンや話し方 38%
表情や見た目 55%
だという。昔のベストセラー「人は見た目が9割」にも記載されていた。

これは対人コミュニケーションについての論説であり、以下のテキストに関する議論とは前提が異なる。

しかしながら、テキストにおいても、どのように語られるかというのは語られる内容と同等かそれ以上に重要だと感じる。

先日、平野啓一郎の小説「ある男」と「マチネの終わりに」を立て続けに読んだ。平野啓一郎の小説は15年以上前に「日蝕」を読んで以来、久々だった。
大人になると長いゲームを攻略するのが難しくなるのと同様に、難解な小説を読むのも難しくなる。そのために「日蝕」的な難解さから長く遠ざかっていた。

遠ざかってはいても「日蝕」は若い時に読んだ思い入れのある小説である。だから、平野啓一郎自体には無意識に自分の中のアンテナが反応していて、同じ著者ながら難解ではない「ある男」「マチネの終わりに」を手に取るのも自然の成り行きであった。

ここでは同書の物語としての感想は述べない。

しかしながら、平野啓一郎の文章は実に、練られていて、熟練していて、美しい。その後、ライトノベル的な文章のミステリー小説を読んでいる時にこそ、平野啓一郎の日本語の美を感じたのである。

ライトノベル的とはなにか。
「純白のあかりがてのひらの鮮血を鮮やかに妖しく照らし出していた」
みたいな表現である。
いや、これはこれで良いのだ。良いのだけれど、シリアスな注目すべきシーンを描くのに勢いあまってこうした「鮮血を鮮やかに妖しく」のような表現が積み重なると、読者としてはどこか薄っぺらく感じてしまう。
ストーリーを映画的に漫画的に進めるためには、どうしても‘画面’を説明することになる。視覚を視覚だけで表現するから、同じような言葉の積み重ねになる。だいたい鮮血は鮮やかに決まっている。でもことさらそれを文章で語る。シリアスなシーンですよ、と、一呼吸分の‘画面’を見せるために。

ライトノベル的な文章を読んでいて、平野啓一郎ならこうは表現しないだろうな、と思った。まるで、気の乗らない人と飲み会で話していて、あの人ならこうは言わないだろうなと夢想する時のようだ。
だからまるで作家平野啓一郎へのラブメッセージのようなテキストになってきてしまったが、言いたいことはそうではなく、ストーリーや内容はコンテンツの中心ではあるものの、そうはいっても、どのような文章で、どのような表現で語られるかが、語られる内容と同等かそれ以上に重要だということである。

一方で、某ライトノベル的な小説がまったくの不人気の駄作なのかといえばそうではなく、むしろ平野啓一郎の小説よりもずっとレビュー数が多い好評のベストセラーである。
もちろん内容の面白さにも良さがあるのだが、実は、私が薄っぺらい表現と評しているこの語られかたそのものも、実は大衆が好むところなのである。

安易な語られかたが大衆に好まれる中で、しかしながら私は熟練した語られかたをひっそりと好む。安易な語られかたのストーリーよりも、ずっと長く印象深く大切にする。
大量レビュー数、大量いいねを良しとする現代のマーケティング事情には反するけれども、同時に多様性と言われる時代に、丁寧に語られる美しい日本語たちをこれからもひっそりと楽しみたい。

そしてできる範囲で、私自身もそうありたいと思う。
思うけれども難しく、大切な人には丁寧に語るべき、と思えば思うほど私は言葉を飲み込んで、結局ほんの少しの言葉も語れなくなってしまうのだ。

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