悲しみは未来の可能性の悲観による

悲しい気持ちは、なにを悲しんでやって来るのだろうか。
別に来なくていいのにもかかわらず。

人との別れが悲しいのは、その人が失われたからではない。その人から今後得たであろう自分への影響が失われて悲しい、自分の未来の可能性が失われたことが悲しいのだ。

今が一時的に寂しく不満でも、近い未来の可能性が楽観的であれば悲しくはないだろう。人が悲しい気持ちにとらわれるのは、未来の可能性が悲観的だからだ。
悲観的というのはやや主観的な物言いに見えるが、客観的に現在における状況から要素を並べてみたときに、未来の状況に対して良い効果が期待できる要素があまりない、ということを示している。
ここに、良い効果があるであろう要素を加えることができれば、あるいは悪い効果をもたらす要素を排除することができれば、未来の可能性の悲観の度合いが変わり、悲しみは収束するだろう。

一方で、悲しみの収束にはただただ時間が必要であるという説もある。未来の可能性への悲観の度合いは変わらないながらも、悲しみは単に時間の経過によって少しずつ癒える。要素による原因側だけでなく、悲しみを持つ心理そのものにも悲しみの程度が変化する要因がある。
長い時間をかけて外傷が癒えていくように、悲しみもまた少しずつ癒えていくというやつだ。目に見えないし、そのスピードがどれくらいなのか、いつになったら悲しくなくなるのか、よくわからないけれど。

アンガーマネジメントなんていう言葉がある。
私はどちらかといえば悲しみをマネジメントしたい。
今ここにある要素から逃れられないとき、心理だけを早送りで時間経過させられたらいいのに。

仕方がないから心臓の鼓動を少し遅くしよう。まばたきの周波数を小さくしよう。そうしたら相対的に時間が早く進むはずだ。もっと遅く。もっと遅く。

#テキスト #作文 #随筆 #エッセイ #文トレ

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