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灰のように崩れたお前へ

去年の夏は蜘蛛が多かった。べたつく暑さが共に思い出されるほど、その姿をよく覚えている。

そいつらはどこにでもいた。電線の間。物干し竿。寝室の窓の裏。
少しずつ生活を侵食するように、巣はそこかしこで広がっていった。

玄関をでてすぐの、階段を小さく降りる途中に腰をすえた奴がいた。外出するとき、パッと青空が目に入って気持ちいいのがこのアパートのいいところ。その視界の隅に、いつのまにか邪魔な虫が定着してしまっていた。

体も巣も小さかったそいつは、夏と一緒に大きくなっていった。初夏の爽やかな日差しとともにやってきて、うだる暑さで空気が揺れる頃にはすっかり大人になっていた。

毎日目にしているはずなのに、時々その成長にびっくりすることがあった。今年は虫が多いから、贅沢太りをしているのかもしれないと思ったりした。

その巣も、気づけば僕の髪にひっかかるほどに大きく広がってきた。そういう時、僕はわずかな罪悪感を抱きながらも、ある程度巣を壊した。
そいつはいつの日もただじっとしていて、「死んでんじゃねぇのかな」と思ったりしたけど、僕が巣を壊したときは少し慌てて動いて、がっかりするような安心するような、変な気分だった。

本当に静かな奴だった。他の蜘蛛も同じなんだろうけど、仕事にいくときも帰って来たときも目にするものだから、「今日も動いてないなぁ」と確認するのが日課になっていた。晴れの日も雨の日も、台風がきたって、そいつはそこでじっとしていた。

夏もすぎ、空気はすっかり乾いていた。蜘蛛はまだそこにいた。
ただ、いつからか巣が広がってこなくなった。日々を過ごしていても、糸が髪にひっかかることはなくなっていた。
草木は老いてしまったが、そいつはまだ青々としていた。

散った枯れ葉を雪が覆っても、それでもまだそいつはいた。すでに「あった」のほうがふさわしかったかもしれないが、僕は感心した。
なにが楽しくて生きてるのだろうと思っていたけれど、こいつはこうなのだろうと、なんとなく納得した。
僕の生活と共に季節を越える蜘蛛に、僅かな情が芽生えているのを感じた。

冬の寒い朝は車の窓が凍る。いつもより早く家をでて、車にエンジンをかけて暖めなければ出勤すらままならない。
凍えながら階段を降りる途中、気づいた。隅にたまった雪の側でそいつは力尽きていた。ちょうど、巣の真下にあたる位置だった。

夏のあの日からずっとじっとしていた蜘蛛は、とうとう本当に動かなくなってしまった。
それを横目でみながら、いつも通り仕事へ向かった。

そして帰ってくると、やはりそいつはそこにいた。いつもと違うのは地べたにいることだけだ。

風が暖かくなるにつれ、そいつはどんどん干からびていった。
嫁さんに「あの蜘蛛に情がある」と話をしたら、「気持ちがあるなら埋めてあげれば?」と言われた。
それもそうかと思い、晴れた日に埋めてあげようと決めた。

結局、行動に移したのは3日ほどだった夕暮れの頃だった。
持ち上げようとすると、いとも簡単に足が折れた。いや、そんな手応えすらなかった。燃えきった線香のような脆さだった。

「あぁ、お前、とっくに死んでたんだな」

そう思った。
ずっと分かっていたことだったけど、感覚が認識した瞬間だった。

その死体は黒ずみ、階段に癒着するほど乾ききっていた。剥がそうとすればするほど崩れていく。僕の手のひらに収まる頃には、もう何であったかわからない、ただの欠片の集まりとなっていた。

それを、駐車場に生えている木の根本に埋めた。
本当に簡単な、埋葬とは言えないものだった。ゴミ捨てと呼んだほうがよかったかもしれない。

だけど、あの夕暮れの日。僕と蜘蛛の毎日は終わりを迎えたんだ。

さよなら、蜘蛛。

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