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EP.015 達富航平 / KOHEI TATSUTOMI(シネマトグラファー・東京)

示示/JIJI 
https://jijict.com/
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@kohei_tatsutomi

本編より、ドキュメンタリー作品

”1997年京都出身。19歳の時、自主ドキュメンタリー作品制作のためタンザニアとペルーに滞在。大学生時代に舞台演出家らと制作した作品で、2021年門真国際映画祭ダンス映像部門にて優秀賞を受賞。現在は東京を拠点に、CM/PV/MVなど幅広く活動中。”

keyword 前編
自分をクリエイトする.   自分のクリエイティビティを押し合える.   自分のクリエイティビティで押し返す.   タンザニアとペルーへ.  目的を持って旅に出る.   一旦全部を受け入れる姿勢で.   写真と映像.   瞬間ではない創り込みだけど、写真ほど創り込めない.   限りなく生な状態でスパイスを与える.   映像が主人公になってはいけない.   最終的なアウトプットは似ているけど、創り込みのアプローチと余地.   ドキュメンタリーとアート作品.   その場にいられない人に届けるためのもの.   ディレクションするものが被写体に対する興味を押さえにいく.   カメラマンとして着眼する点の多さ.   映像の力を信じ切ってはいけない.   解像度の違い.   どこまで観ようとしているのかが情報量に乗ってくる.   観ているものが違うと気づかされてしまう.   観ているものが同じでも見せ方が違う.   被写体が1㎝動くだけで、画面に占める占有感が変わる.   軸を持つべきなのか、持たないべきなのか.   綺麗に撮ったらいいわけではない.   軸が正解ではないかもしれない.   今、彷徨っているなかで、作品としていい画を撮るところに落ち着いている.   情報の削り方を模索するのが映画なのかな.   カメラを持たない監督とカメラを持つカメラマン.   責任を分散させる.   ベクトルは向かせるしかない.   映像を撮るように音楽をつくる.   どこまで音楽を存在させるのか.   映像を見ていたら音楽が鳴っている.   気持よく強制する.   気持ちよさの主軸.   ライブの中を生きる.   日々は予定不調和だらけ.   着眼する点の多さ.   より一つの要素をたくさん考えることをどれくらいしているのか.   それを放棄しない.   色んな感情で感じる.   いいと思うのは何故か.   情景をいかに描写できるか.   見ているようで見ていない.   情景の捉え方の量の差.   そこまで捉えられたかどうか.   情景を見ようとしているか感じようとしているか.   適した技術料でアウトプットする.   技量はベース、その先は捉える力.   言葉だけでは表現しきれなくなったから映画を撮るようになった.   実写だから情報が減ってしまうこと.   映像は弱い.   脚本と漫画と映像.   2Dと3Dの表現.   鑑賞する状況を統一させる.   視聴を体験へアップグレードさせる.   

keyword 後編
映像と時間.   より細かく見たい要素があるかどうか.   連続しているかしていないか.   瞬間に責任を持ちたくない.   ある程度の尺がある中で表現したい.   体感時間.   時間に対して嘘をつきやすい.   創作されたもの.   ストーリーを想像することは嘘ではない.   その人を表現するためのスパイス.   どっちも占有させてしまう責任.   映像は景色と同居できない.   同居していない記憶.   映像の限界.   クリエーションできる余白が大きい.   文章しか読んでいないのに映像をつくろうとしている.   即興力.   脚本、ロケーション、配役、衣装…最終的には現場の即興.   監督は説明がちゃんとできる.   はじまっていた.   起こったピリオドをより大切にする.   過去に対して向き合うことはあまりしないかな.   中学生の頃のケータイを見返すような.   最近これ気づいたんやけどさ.   最新の自分を共有できる仲間.   前に前に.   勝手にアーカイブしたい.   会う度に着眼する点が変化する.   瞬間は一瞬ではない.   即興に表現の可能性を感じた.   空間を切り取る人間として存在している.   できごとが主役.   被写体としてのダンサーとそれを撮る自分.   できごとを見に行く感覚.   矛盾.   ボーナストラック

--ayako
収録のときからたぶんずっと「瞬間」って何だろうと考えている自分がいるなと思ったのですが、アーカイブを聞いていてメモしたキーワードが

瞬間は一瞬ではない、でした。
(一)瞬のなかの間にストーリーが眠っているのかな、とか…

--kohei
それは同感ですね!
瞬間の尺度は個人で大きく変えられるようなニュアンスな気がします。

1日でも1現場でも1カットでも、その都度自分の中で何か大切にしたいと思えるきっかけが生まれたら、その瞬間として価値のあるものになると思います。

そういう意味では、写真は一瞬ではなく瞬間を切り取ることのできる出力方法なのかもですね。

--ayako
瞬間を描く映像と、瞬間を切りとる写真、みたいなことかな?

--kohei
瞬間を切り抜く映像と、瞬間を切り取る写真。ってイメージですかね?ある程度の尺を抜き取るのと、一コマを切り取るような。

んー。大きな違いとして考えたことがなかったので説明が難しいですが、ニュアンスとしては体感はそんな感じですね。

--ayako
切り抜くって表現、おもしろいですね!その発想というか動詞は思いつかなかった...

切り抜き抜くと、奥行きがある感じがあって、その奥行きがZ方向でもあり、時間軸であるのかも。

--miyabi
全然違う話からだけど。
今、ある動画をAIで解析してて、その解析データを1秒間何フレームで出力させようかって考えていたところなんだけだ。瞬間が一秒だとしたら、一瞬がフレームなんかなと。

パラパラ漫画のようにフレームの連続によって立ち現れるもの。

フレームは固定された一視点だけど、映像はフレームの連続の間にアングルも変えられるから360度なイメージもある。

--miyabi
「一秒間何フレームで出力させよう」のところなんだけど。1秒60フレームぐらいで人間は十分認識できるんだけど。それ以上のフレームも出力できるわけで。

認識できていない一瞬が瞬間の中には隠れているんだな〜と思ったところ。

--ayako
フレームの連続とアングル…
認識できない一瞬が瞬間には隠れている。

今、自分がすきな写真と映画を思い浮かべながらそれぞれが伝えようとしてること(言わんとしてること)を捉えてみたい衝動に駆られております。

日々のなかで、自分が大切にしたいと思える瞬間をどれくらい丁寧に見つけられているかって、自分に対して問いを立てたときに、ぼんやりしてしまったなぁ。今回の一番の発見はそれかも!

--kohei
現実の世界を肉眼で見るときにはフレームレートなどなくて、全ての一瞬が繋がっているけれど、映像として出力するときには都合上フレームレートってのが出てきますよね。

映像を観る上で、24fpsが1番人間の目に優しくて自然な感覚がします。それは、24枚だからこそ、1枚1枚の境界線がブレてるからだと思います。逆に120fpsだと滑らかすぎて全てが観えすぎているというか。肉眼では全てが見えているはずなのに、映像でそれを観ると逆に違和感というか。

不思議なのですが、書いてて思ったのが、それが”見る”と”観る”の違いなのかもですね。

--ayako
全部を見ようとすると見えなくなって、全部見えないからこそ観ようとする。心地よい矛盾がありますね。

世界には、いろんな間が潜んでいて、いろんなものが眠ってて、その吐息に気づいた人はそれらを起こさぬように捉えようとしてる。

文と文の間
音と音の間
瞬と瞬の間
身と体の間
空と青の間
〇と〇の間

--miyabi
情景という言葉の中には、イマジネーションが重なっているような気がした。ただ見ている・観ているだけでなくて、観ようとしている。

目の前のことだけでなくて。
想像の余白があるような。

--miyabi
ふと。一瞬の中には前後のストーリーも内包してそうと感じた。
今という時に、過去と未来も存在してるみたいな。

過去からの集積の一瞬。
今に背景とこれからをも観る。

--ayako
あ、この流れでボーナストラックの話もしたいんだけど、ボーナストラック言ってるけどいいかな(笑)アフタートークまで読んでくださってる方には聞いてほしいから、よしとしてください(笑)

--ayako
即興で身体と戯れているダンサーの方のなかには、その一瞬一瞬を刻みながらも前後のストーリーを感じながら紡ぎながらその場所と重なり合ってるのかなと感じたのですが、

その、つねに動いていく対象の動きとか心情とか、それこそ情景とか、映像として、目の前で生じている現象を捉えようとしている達富くんの眼の動き(ピントの動き?)はどういう感覚だったのですか?

--kohei
路上でコンテンポラリーを踊るということ自体は、特に目新しい企画ではないので、僕らがSOUP:impで大切にしたのは、「その空間に置かれた身体がどのように動くのか、その動きを目撃者として切り抜く」といった感じでした。

明言せずともダンサーの彼とはそこは繋がっていました。音楽に合わせて踊ったり、撮影するのはとても簡単だけど、その時カメラマンとしての身体の範囲を空間全体に広げてダンサーと同じ目線になることを目指してました。

--ayako
カメラマンとしての達富くんも、ダンスという表現ではないけれど身体をつかって撮影してたってことですね。

--kohei
そうですね。
彼が踊った後に、「ダンサーがどっちか分からんで」と話していたのを聞いて、カメラマンも何かしら身体を動かす存在なのかなと感じました。

それがあくまでも踊りを撮っているからそうなったのかもしれませんが、意識的にはどんな撮影でも通ずる感覚はありますね!

--ayako
それおもしろい!
ダンサーにダンサーと言われちゃうカメラマン笑
カメラマンがみんなそうなのかは分からないけど、少なくとも彼にとっての達富くんは、カメラマンではなくダンサーに感じたというところに、シンクロできていた何かがあったのでしょうね。

二人の間には撮る撮られる関係以上のものがあって、だけれども、撮る撮られる関係でないと見えない世界が映し出されている。

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