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『蟹と宇宙船』

 前略、作ってから半年ほど経ったのでそろそろ公開しようと思います。これを公開するなら、深夜かな、と、ふわふわと考えていました。大学の演習、合評会で提出した作品『蟹と宇宙船』、100分授業で、授業1回につき3作品ほど読むので、まあ、10分もなく読めると思います。


蟹と宇宙船

 その蟹と出会ったのは、十年ほど前だったと思う。たしか、それはコンビニで炭酸水と少年漫画雑誌を買い終えた、夜更の開けた道路でのことだ。当時の僕からしてみれば、蟹と言えば茹でられた〈カニ〉の橙色の甲羅しか知らず、初めて見た彼の青色とも緑色ともつかない、その海底から得たであろう魔力にも似た美しい甲羅の色をよく覚えている。
 不思議がる僕の視線に気がついた彼は両腕(実際には両ばさみとでも言うべきなのかもしれないけれど、彼にとっては紛れもなく腕であるその鋭い手)を広げて僕に話しかけてきた。
「どうしたんだい?」
 彼の声もまた、吸い込まれるような魔力を帯びていた。僕が答えに戸惑ってしまって口籠ってしまうのを見て、彼は静かに笑った。笑っていた、気がする。厳密には。
「夜更のコンビニが、何故だか好きでね。暗闇の中に光るこの青白い建物は、なんだか宇宙船みたいに思えないかい?」
 僕は静かにうなずく。二人と呼ぶのが正しいかはわからないけれど、彼と僕だけの空間には、たぶん月の裏側と同じ空気が流れていた。
 次に彼に会ったのはまた夜更のことだった。僕の手元の炭酸水はホットコーヒーに変わっていて、たしか彼の手には肉まんが握られていた。それはもしかしたら餡まんだったかもしれないけれど、うん、定かではないけれど、肉まんだったように思う。ただ、また彼の魔力に出会えて、当てられて、僕が高揚していたのは確かな記憶だ。
 肉まん、食べるんだ、と思ったことをこぼす。彼はすこしおどけた表情で言った。
「まあ、冬だからさ。僕だって湯気のあがるようなものが欲しくなるのさ。」
 彼の気さくな姿に少し親近感が湧く。その親近感が、彼の意図したものであることを、僕はどこかで感じていたけれど。
 最後に出会ったその日だけは、夕暮れだった。夜以外の時間で彼を見かけるのは初めてだったから、少し驚いてしまったことを覚えている。夕焼けを眺める彼の表情を、僕はうまく読み取れなかった。
「夕焼けは好きかい?」
 あの吸い込まれるような声で彼は問う。僕はその声につられた形でうなずいた。夕焼けが好きなのは事実だったけれど、あのとき、僕はその問いにしっかりと解答できていた気はしない。
「今日で、この街を離れるんだ。だから、夕焼けの姿を見たくてね。ほら、茜色は終わりの色だから。」
 戸惑いを隠せない僕は、自分の中の疑問を整理できていなかった。ただ、終わりの色、という言葉ばかりが頭にこびりついて、そのひとことを反復するように呟く。終わりの色。
「物事の終わりはだいたいこういう色で終わるんだ。一日も、僕らの命も。君たちは幸せなことを暖かな色で描くけれど、でも、僕にとっては海底のような冷たい煌めきのほうが、性に合うみたいでね。」
 海へ、帰るの? と僕は尋ねる。その問いに彼は微笑むだけだった。
 あれから幾年か経った。僕はまた、この宇宙船めいたコンビニで、彼のことを思い出す。青白い、魔力の残り火を浴びながら。

©︎Kaname Tamura 2021

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