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ネットプリント『ゼロの花束』をよむ。

 なんの意味があるかどうかはさておき、noteアカウントをノリで作ってしまった。作ってしまったからには何か書いておきたいものだけれど、僕は人に見せられるような文章なんてものを書けるような身分でもない。とはいえ何かを書かねばならないという使命感はあるので、それをちょうど満たせる何かはないかと思い、考え付いたのがいわゆる"感想文"である。これならば小学校のころから課題として人並みに書いてきたものだし、人並みには書けるだろう。多分。ということで記念すべきこのアカウント初めての投稿は感想文である。と、ここまでが序文。そろそろ本文に行こうか。


 縁あって2000年生まれのネットプリント『ゼロの花束』に参加させていただいた。参加させていただいたからにはなにかアクションを起こしたいので、今回は『ゼロの花束』から一首ずつ、一句ずつよんでいこうかなと思う。とはいえ僕は短歌など学んだこともないど素人であるから、至らぬところしかないだろうけれど、そこはご愛敬ということで。そういえばこういったときの"よむ"は"読む"でいいのだろうか。いや、多分意味合い的にはいいのだと思うけれど、なんとなく気に入らないし、僕の中ではひらがなにしてみよう。ひらがなの方がかわいいもんね。

適切な恋だけをして死ぬ人とおんなじ水でシャワーを浴びる

 のえみ(中田のえみ)さんの「不適切な、愛。」より。初っ端から取り上げる歌がタイトル歌(?)的なアレなのかなって感じでまあ無難にいってるなって思われそうだけれど好きだからいいじゃないか。それはさておき、この歌の、主人公と「適切な恋だけをして死ぬ人」の距離感はなんだろう。不思議にその隙間に吸い込まれてしまう。きっとその人は素敵な人で誠実な人で、主人公はとても純粋なのに、無垢になれない人なのだろう。そんな主人公の"一方通行の愛"、いわゆる片思いっていうそれは、誰しもが陥ってしまいそうな罠のような恋は、悲しいほどに綺麗で、不適切な愛なのでしょうね。なあんてね。とにかく綺麗な切なさをしっかりと孕んだ歌だなって思いました。こういう恋愛ものは好きです。ここ数年僕自身にはそんな経験ないですが……。まあ、僕の身の上話なんて聞いてもあれですね。次行きましょう、次。

さよならで春は終わって(終わらせて)静かに作るココアは甘い

 冬桜さんの「砕かれる春」より。()を使っているあたり、若干散文的なのだろうか?まあ、知らんけど。この「終わって(終わらせて)」という表現から僕はなんとなく強がっている主人公の姿が思い浮かんで、むず痒くなる。こう、「終わったんだ。いやまあ私が終わらせたんだけれど。あ〜ココア甘い」みたいな。この言い方だと少しフランクすぎるとはいえ、こんな感じの弱さが僕は好きで、ココアを静かに作らざるをえない感じであるとか、そのココアの味に持って行かれてしまう感じであるとかが、本当になんともいえない。強がってしまう人間的な弱さは人に煙たがられたりするけれど、その雰囲気は時として詩情を産む。その詩情はきっと多くの人が親近感を覚えて、好きだ言う人も出てくる。なんとなく矛盾を感じて滑稽だ。ともかく、そんな人間的な弱さを抱えながら主人公に進んでいってもらいたいなあって。そんな感じ。

親友と呼べば線香花火の死

 順番通りに行くならば俳句はまだ先なのだけれど、先に同作者の俳句の方を見たい。ということで冬桜さんの「共犯」より。上の歌と同様に終わりを詠んだ句で、その捉え方と持っていき方が僕は好きだ。線香花火の死、すなわち火が落ちてしまう瞬間を詠んだ句。線香花火という単語を聞くと、なんとなく長渕剛の「夏祭り」が勝手に思い浮かぶのだけれど、この句はそんな恋愛句ではなくて、思い出句でもなくて、でも多分単なるその場で深まった友情ではない感じ。裏がありそう。なにかこの後不慮の事故かなにかで会えなくなってしまうのではないかって、僕の安直な想像ではあるけれどそういったものを想起させる句。

鶏ガラの匂いが残るくちびるでキスしてちょっと笑ってしまう

 渡良瀬モモさんの「ラーメンを真上から撮る」より。全ての歌がラーメンに関連してて男子高校生的には嬉しいテーマ。チャーハンと餃子も一緒に欲しい、ってそうではなくて。なんというか不思議だけれど、一番日常的。この二人の関係は多分なかなか親密なのだろう。もしかしたらもう結婚しているかも。そうでないと「さっきのラーメンの匂い残ってるじゃん」の言葉が笑い話ではない。多分怒られる。でもそうではないから、平和で、何気なくて、なんの変哲もない仕合わせを描けているのだ。連作の終わりに本当に後味のいい歌を持ってきてくれていて、ハッピーエンドって感じがした。お腹も心も満たされるというのは多分こういうことなのかなあ。満たされたいなあ……。

丸っこい文字で書かれた僕の名を何度も見ては頬を緩ます

 ガイトさんの「匿名さんのチョコレート」より。ガイトさんの歌はどれも率直に詠んでいる。捻くれ者の僕とは正反対だ。この歌もそうで、結句の「頬を緩ます」って言い切っちゃう感じ。俳句ではないよなあってくらい素直。確かにかわいい女の子に自分の名前を書いてもらったら嬉しい。関係ない話をすると、かわいい女の子に「あっ、電話きちゃった。タムラで予約してるから、先お店入っといて」って言って、「◯人で予約したタムラですけど……」って言わせる遊びをしていたことがある。結構幸せな気分になれますのでぜひお試しを、ってそうではなくて。純粋な高校生って感じがしてすっとよめる歌だった。

夜に生き夜に恋するオリオン座

 またまた俳句を先に触れよう。同作者の「真夜中」より。一見するとオリオンが夜にあるのは当たり前で、新しさはないのかと思いきや、その当たり前を「生き」「恋する」と表現している。ベタな詠みかたかもしれないけれど綺麗だし、オリオンの伝説と重ねてみると面白くて、なんだかんだ恋多きオリオンらしい感じがする。「お前、今度はニュクス(ギリシャ神話の夜の女神)に恋したのかよ」みたいな。そう考えるともっと深くなって、ニュクスが産んだのはタナトスやネメシス、エリスなどがいて、つまり死の神やら復讐の神やら争いの神やらなのだ、確か。こんな感じでちょっと深よみできるのだけれど、さすがにここまではやりすぎかもしれないと書きながら思ってたり。

そのわりに自己肯定感は強くて雪踏むような心臓の音

 短歌に戻って、池田明日香さんの「未来の星座」より。「その」がいいですよね。一瞬で捻くれ者感がぶわって広がる。前述の通り、僕も捻くれ者の類でこの句の上の句(言い方あっているだろうか)に親近感が湧いた。そして下の句の何も言わない音だけに着目していく感覚。心臓のどくんどくんという鼓動を雪を踏むざくざくという音のようととらえているのは、多分その音以外に何も聞こえない雰囲気であるとか、止まることのないリズムだとか、そういう共通点を見出したのではないだろうか。そしてその音は自己肯定をするときのどうしようもなく遣る瀬無い感覚に拍車をかけていく。何もなくて、「そのわりに自己肯定感は強く」ある。どうしようもないくらいにこの歌は僕を引きずり込んでくれた。

明日から一番上が私たち部室が少し冷たくなるね

 音色さんの「そつぎょう」より。タイトルから卒業する自分たちのことを詠んだ連作かなと想像したけれど、そうではなくて、残されていく自分たちのことを詠んだ連作。特にこの歌は僕を含む2000年生まれの人からの共感がすごくある、と思う。少なくとも僕はそう。気がついたら明日から最高学年にされてしまう僕たちはなにを受け継ぐわけでもないのにどうすればいいかもわからないし、卒業してしまえば卒業生とのつながりなんていうのは簡単に消えるもので、赤の他人に等しくなってしまう。友情は続いても、部活の先輩後輩なんて関係は卒業すれば消えるのだ。まあ、消えるべくして消えてゆくのかもしれないが。単なる不安ではなくて言葉にするのは難しい複雑な感情。今年大学二年生になるはずの代と昔から同級生以上に仲のよかった僕は去年その気分をちょうど味わったのだけれど、あの質感は確かに、冷たい。ただこの主人公は僕と違って部室に共にいてくれる同期がいる分、息もできない冷たさじゃなくて、「少し」なんだろうな。

後ろ手で扉を閉める(おきっぱの絵の具そろそろなんとかしなきゃ)

 海老茶ちよ子さんの「dusk」より。「おきっぱ」とか「そろそろなんとかしなきゃ」って羅列のようなセリフとかがリアリティをこれでもかというくらいに生み出している。扉を後ろ手で閉めるめているということはあわてて自分の部屋に駆け込んだのだろうか。あるいはなにか物憂げに部屋にゆったりと入ったのだろうか。どちらにせよ雑に部屋に入って閉めようと考えずに閉めている。そしてそんな主人公の頭の中はとりあえず絵の具のことでいっぱいになっていそう。本当に何気ない一コマなんだけれど、この何気なさって重要で、特に絵の具がおきっぱになってることを考える生活は、高校に入り、美術選択で迷うことなく音楽を選んだ僕には、とてもダサいオシャレさを感じて、同時に(そういえば学校に裁縫セットとかおきっぱだな……持って帰んなきゃ)って思いましたとさ。まる。

春の日のカラメルソースさびしさはわたしのだから飾ってあげる

 杉本茜さんの「ふる、はれはれ」より。どうでもいいことかもしれないけれど、この連作にはどれも「って」が入っている。使われ方は少しずつ違うのだけれど、なんとなく杉本茜さんから見える世界のほんの一端を見た気がする。この歌は二句切れ(?)なのだろうか。そこによって話は変わってくると思う。僕は一旦切れているとしてよんだ。カラメルソースの甘さ、ほろ苦さ。それはさびしさに通じるものがあって、あれはどうして輝きを持っているのだろうと思うことがある。特に春の日のカラメルソース、春の日のさびしさとなればなおさら。それは確かに自分の物にしてしまいたくて、結果的に僕らは悲劇のヒーロー・ヒロイン気取りと呼ばれるようになるのだが、多分その自分の物にする行為を”飾る”と形容した。ああ、確かに僕らはあれを飾っているのだ。飾って愚かだと笑われるのだ。でも僕と主人公の決定的な違いは、この主人公の物は、美しく、笑われることはないだろうということだ。

ドーナツの穴みたいな学校で私は生きるよ今日も飽きずに

 橋本らぎさんの「十七歳、冬」より。この歌は歪な律をしている気がする。僕が5・7・5・7・7しか知らないだけだろうか。ドーナツのよう、という比喩はよく耳にするが、ドーナツの穴。”何かが欠けているもの”ではなく”何かから欠けたもの”。これを学校に当てはめてくれたことで、僕の学校という不仕合せが一体どうして不仕合せなのかが、また少しだけ見えた気がする。そうか学校は何かから欠けたものなのか。たしかにあの学校というという空間は、そしてそこにいる存在は、真っ当に見えて何かから欠けたものなのかもしれない。僕はそれに飽いてしまったけれど、この主人公は飽きずに、欠けたものではない存在として、生きていって欲しい。

歌なんて滅多に詠んでをりませんで砂漠に貝が落ちてゐるくらゐのもんで

 碧海さんの「砂漠の貝」より。僕は、僕が思うに彼の友人の一人であり、また、彼の作る世界観のファンの一人である。つまり何が言いたいかといえば僕はいつも通り彼の作品をよんで、唸っていたという話だ。とはいえ、彼が詠んだ歌は今回初めて見た。多分初めてのはずだ。だから彼自身を詠む歌なのかなあと思ったり。彼の作品の魅力のひとつは”硬さ”ではないだろうか、文語旧仮名を使う人間はたくさんいるのだろうが、その上でなお彼らしい硬さのようなものを感じる。それを短歌にも持ってきてくれたから僕は今唸りを超えて発狂しているのだ。そんな硬さを持ったイメージもあり、砂漠の貝は彼の歌自体のことではないかと勝手に妄想している。にしても砂漠に貝なんてあるのだろうか。ないこともないだろうけれど、とはいえその珍しい貝殻を僕らはどうするだろう。僕としては眺めていたりくらいはできるかなあと思うけれど、まあ、実用性はない。拾わないで通り過ぎていく人間や、踏み潰す人間もいそうだ。まあ、拾える人間に僕はなりたいけれど。

如月や琥珀の泡の動かざる

 同作者の「いつも日暮」より。たしか仲間内での句会で出ていたような、出ていなかったような。まあそれはどうでもいい。琥珀、博物館か何かで見たことがある。あの橙色に似た、透き通った、よく虫とかが中で固まっていたりするあれだ。天然樹脂の化石なのだから琥珀の中の気泡は動かないことは当たり前なのだけれど、その綺麗さは知っての通りで、ましてや如月の、春の訪れる季節の光を、風を受けたならば、それはより一層輝きを得るはずで、それでもなお琥珀の泡は動かない。句の形も綺麗で、とても地味に刺さる句だった。仲間内の句会で見たのに取らなかったような気がするけれど、その理由はよくわからない。もしかして句会で見ていないかもしれない。見ていない気がしてきた。

ガムシロップみたいなものを注ぎます心の栓はしまってますか?

 ゆへさんの「自傷進学校生」より。題名から僕らを力強く引き摺り込んでくれる。僕は付属校生だが、少なくとも風の噂程度には進学校の負の部分を聞いたことがある。誰が言い出したか知らないが、負の部分の多い進学校は”自称進学校”と呼ばれるようになり、そこに暮らす生徒の生活は確かに自傷的かもしれない。そんな彼らが注ぐ、注がれるガムシロップみたいなもの。甘ったるくて、どろっとしていて、少なくて、ある時は幸せに、ある時は憂鬱に変わってしまうそれを、心の栓をしっかりしめて僕らは受け止めなければならない。考えるだけで息ができない。透き通った息苦しさのようなものがこの歌の後味として永遠に僕の心にこびりつき、輝きを放ちながら、今も隙を見つけては溺れさせようとしてくる。

木から出た膿の如きに橙の実は溌剌と膨らんでおり

 ナルセモモカさんの「地上十四階の春」より。重さを含む連作が続くが、もしかしたらこれが僕らの年代らしさなのかもしれない。それはさておき、この歌はなんというか、馴染みがある雰囲気だ。なんとなく、俳句に似ている。でも俳句だとここまでディティールは説明できない上に、この歌に包み込まれている物憂い感覚を伝えきれないと思う。俳句だと、これを見る主人公の心情は隠れきってしまう。この歌ではその心情を歌越しに想像ができる。酸味、苦味の強い橙の実は、醤油に絞って即席ポン酢を作ったりすると美味しいのだけれど、とはいえ直で食べるのには向かない。そんな実を「膿の如き」と比喩しながら「溌剌」と形容するような主人公だ。自分のことを死んだ魚の目とか言って笑いながら、明日への希望をもってしまいそうな主人公が、僕にはそこに見えた。独特な形容による写生的な歌に、主人公を見せるこの歌の良さを、僕は氷水のように味わっている。


ということで全員の作品を一首ずつ、一句ずつよませていただいた。2000年に生まれて今年人生18年目を歩みだした僕らの言葉は、大人には、子供にはどう見えるのだろう。あいにく僕は自分自身が死なない弱さを探すのに必死で、それに課題もあれば部活もあるし、他人の見方を探している暇なんてないのだけれど、きっと僕らの歌を褒めたりけなしたり笑ったり泣いたり、僕らの歌で感情を動かしてくれる人は案外そこらへんにいるんだろう。つまりどうやら僕らは生きているらしく、僕らの言葉はどこかに行ってしまっているようだということだ。と、まあ格好つけるのはこの辺までにしておいて、色々まとめるのに時間がかかりすぎてしまって、もう印刷期限をすぎてしまったから、刷っていない人にこれから刷ってくれと頼み込むのは無理になってしまったが、まあ、どうやらこのネットプリントは単発で終わらないようなので、次回の『ゼロの花束』を大きな期待を抱かずに刷って欲しい。大きな期待は人を殺す玩具にしかなりえない時もあるので。何回か続いたその時は、「あ、どうも。ゼロの花束レギュラーのタムラです。」となっていれば面白いな。とにかく、僕はこのネットプリントに参加できてよかった。では、またいつか。

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