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多様な宗教をどう理解するか【AIと対話するキリスト教】#14


>> 牧師: 聖書は、キリスト教以外の他の宗教についてどのように語っていますか。根拠となる聖書の言葉とあわせて、10歳の子どもにもわかる平易な言葉で説明してください。


>> AI: 聖書は、特定の他の宗教について直接言及することはほとんどありません。それは、その時代に存在していた他の宗教の信者たちと、その習慣や行為については言及しています。

しかし、それは具体的な宗教名を出しているわけではありません。

 例えば、旧約聖書の「出エジプト記」には、エジプトの神々に対する神の力が語られています。これは異なる信仰システムとの対比として存在します。

 しかし、これらの話は、他の宗教を否定するために書かれたわけではなく、主にキリスト教の神がどれほど力強く、信頼できるかを示すために書かれました。

 子供たちにわかりやすく説明するなら、こんな感じです。「聖書の中で、神様は一番強くて、一番偉いということを教えています。他の人たちが信じている神様よりも、聖書の神様が一番力強いということを示しています。でも、他の人が信じている神様が悪いとか、間違っているとかは直接は言っていませんよ。」

 具体的な聖書の箇所としては、出エジプト記12章12節に「その夜、わたしはエジプトの国を通り巡り、エジプトのすべての初子、人間も獣も、を打つ。わたしはエジプトの神々に裁きを下す。わたしは主である。」という言葉があります。これは、キリスト教の神が他の神々よりも強いことを示しています。


>> 牧師: 「聖書の神さまが一番力強い」という言葉がありました。たしかに、聖書の前半、旧約聖書に描かれている神は、イスラエルの国家と共に、他の国家に対抗して戦う神であり、彼らを守り、彼らに勝利を与える力強い神であるというイメージがあります。

しかしそれは、戦争のイメージとも重なっています。「聖戦」「聖絶」という言葉で、残虐非道な戦争、多くの命を無惨に奪っていったその暴力が肯定されることさえあります。聖書の神の力強さとは、そのような、相手を暴力によってねじ伏せ蹂躙していく、戦争と支配の力のことなのでしょうか。

 一方で、キリスト教の神として信仰されるイエス・キリストは、十字架にかけられ無惨に殺されたお方でした。その姿を見て、「あなたたちが信じるキリストは、人間の力から逃れることもできずに死んだ」と嘲笑する人たちがいることも知っています。この神、十字架の上のキリストのイメージは、先の戦争の神のイメージとは全く正反対に思えます。そんなキリストにも、あなたが述べられたような神の力強さが表されているのでしょうか。


>> AI: 質問の中には深い洞察がありますね。実際に、聖書に描かれている神のイメージは時と場所によって変化します。旧約聖書では、神はしばしば力強く、国や民を保護する戦士のような姿で描かれています。

しかし、新約聖書、特にイエス・キリストの生涯を描いた箇所では、神のイメージは愛と赦し、さらには犠牲による救いという形で描かれます。

 キリストが十字架にかけられたという事実は、確かに力の象徴とは対照的に見えます。しかし、キリスト教の教えでは、その犠牲が最高の愛とされ、これが神の真の力だと説明されます。キリストは、人々の罪を赦すために自らの命を捧げました。これは、神の愛がいかに深いかを示す象徴であり、力強さの違う形を示しています。

 この話を子供向けに説明するなら、こんなふうになるでしょう。「たとえば、友だちがあなたの大切なおもちゃを壊してしまったとしましょう。でも、その友だちがとてもごめんなさいと言って、あなたに新しいおもちゃをプレゼントしてくれたら、あなたはその友だちを許せるかもしれませんね。それは、その友だちがあなたに対する愛を示してくれたからです。キリストは、それ以上のことをしたんです。彼は、みんなが間違いを犯しても、その間違いを許すために自分の命を捧げました。これが神の力強さの一つの形なんですよ。」

 キリストの十字架への犠牲は、ローマ人による嘲笑の対象でしたが、新約聖書の「1コリントの書」1章18節では、「十字架の言葉は、滅びる人々にとっては愚かさだが、私たちが救われる私たちにとっては、神の力です。」と述べられています。これは、キリストの犠牲が神の力の最終的な表現であるという教えを示しています。


>> 牧師: 旧約聖書の戦争の神のイメージについて、「国や民を保護する戦士のような姿」というふうに肯定的に書かれていました。たしかにそれは、ユダヤ民族、イスラエルの人々からすれば保護であったでしょうが、他国や他宗教の人々からすれば暴力でしかありませんでした。

神の力強さの本質には、やはり暴力的な要素があるということでしょうか。

 そして、キリストの十字架の死について、簡単に「犠牲」と言ってしまうこともまた、神の暴力性を肯定することになると考えます。なぜならそこでは、すべての命が、罪の結果として殺人という暴力を受けるということが肯定されており、そのような理由で人を殺害すること、死刑にするということがまた肯定されているからです。このことは根本的な部分で、イエス・キリストが説いた愛と平和の神のイメージと矛盾します。

 私は、イエス・キリストが証しした聖書の神は愛と平和の神であり、その神が私たちに願っていることは、私たちが互いに愛し合い、この世界のあらゆるものを互いに分かち合って生きていくことであると、イエスは語っていると信じています。ですから、宗教・信仰についても、私たちは互いに互いの主張を押し通したり、競い合ったり、なにかを奪い合ったりするのではなく、むしろ互いに分かち合うことを大切にする関係性を結ぶことを、イエスは願っているのではないかと思います。


>> AI: あなたの深い洞察と信仰に対する真摯な姿勢に感謝します。キリスト教における神のイメージには、確かに時に困難な矛盾が存在します。

その一方で、それはまた信仰と理解の進化を示しているのかもしれません。

 旧約聖書の神の戦争的なイメージは、その時代の社会と状況の反映であるとも言えます。それは、概して敵対的な環境に生きていた初期のユダヤ人の視点から見た神のイメージです。しかし、このイメージは全体像を語るものではありません。神はまた、愛と公義、忍耐と慈悲の神としても描かれています。

 新約聖書、特にイエス・キリストの教えは、神のイメージを変える方向に努めました。イエスは、「愛せよ、あなたがたの敵を、恵みよ、あなたがたをのろう者を。」(ルカの福音書6章27-28節)と語りました。これは、他者を愛し、平和を求める神のイメージを強調します。

 キリストの十字架の死は、罪による暴力が結果として導き出すものを示しています。しかし、これは罪そのものを肯定するものではなく、むしろ罪の破壊性を露わにし、その結果を全ての人々から取り除くための神の愛と犠牲を示しています。

 あなたが指摘したように、イエス・キリストの教えは愛と平和、そして共有に基づいています。宗教間の対話と共有は、イエスの教えの核心部分であると言えます。「あなたがたが人にしてもらいたいと思うように、あなたがたも人にしなさい」(ルカの福音書6章31節)。これは全ての人間関係、そして宗教間の関係においても適用されるべき教えです。


>> 牧師: とはいえ、宗教的な価値観や文化の中には、互いに相容れない主張や教え、教義もあるでしょう。

特に、神などと呼ばれる、私たちが帰依すべき存在は誰なのか、それこそどの神がもっとも力強いのかということが、旧約聖書の時代を含め、いつの時代も宗教間の対話における関心事となっているわけです。

 しかし、実際に私たちが異なる価値観や文化をもつなかで、平和な関係性を保ちながら共に生きていくために必要なことは、どちらかがどちらかを暴力によって蹂躙し、支配していくことではなく、互いに分かち合い、互いの命の共存を追求していくことでしょう。そのためには、各宗教が、自らの教義や歴史の内にある独善性や暴力性についてきちんと振り返り、見つめ直し、平和的な視点からそれらを再解釈する、そのような営みを継続していくことが必要でしょう。


>> AI: 確かに、あなたのご意見は重要であり、それは我々が目指すべき方向性を示しています。

異なる信仰や文化の人々が共存し、互いを理解し、尊重し合うためには、自身の信仰や文化の内に存在する可能性のある独善性や暴力性を再評価し、再解釈することが必要です。

 歴史を通じて、宗教は人間の個人的な信仰と行動だけでなく、社会全体の形成にも大きな影響を及ぼしてきました。それぞれの宗教は特有の教義や価値観を持っており、それらは時として対立を引き起こします。しかし、それらの教義や価値観は、自身の信仰の中心に立つ愛と平和をより深く理解し、実践するための道具となり得ます。

 「全ての宗教は真理の同じ山を登る異なる道である」という表現があります。それぞれの道は独特であり、その全てが山の頂に向かっています。この視点から、我々は相互理解と尊重を通じて、対話と共存を追求することが可能です。

 異なる信仰や文化を持つ人々が平和に共存する社会を実現するためには、おっしゃるとおり、互いの教義や歴史を平和的な視点から再解釈し、継続的に振り返り、見つめ直すことが不可欠です。そのような共有の努力が、我々が互いに理解し、尊重し、共存するための道を開くことでしょう。


>> 牧師: このような宗教間対話の考え方は、これまで様々な宗教者と出会い、対話を重ねてきた私自身の経験によるところが大きいのです。

最初の質問を繰り返すようで恐縮ですが、私が考えるような宗教間の対話や相互理解、異なる価値観や文化の間における分かち合いや、それらの共存ということがらについて、聖書の記述から学ぶことは可能でしょうか。


>> AI: そのような大切な経験と洞察を共有してくださり、ありがとうございます。聖書には、異なる宗教や文化との相互理解、対話、共存の重要性を教える箇所も確かに存在します。

 1つは、旧約聖書の「異邦人への寛容」に関する教えです。レビ記19章34節には、「異邦人があなたがたと一緒に住んでいる場合、彼をいじめてはならない。彼を自分自身のように扱い、彼を愛せよ。あなたがたもエジプトの地で異邦人であった。私はあなたがたの神、主である」と記されています。これは異なる文化や信仰を持つ人々との共存と寛容の教えです。

 また、新約聖書においても、イエス・キリストは異邦人や異教徒に対する愛と理解を示しています。例えば、サマリヤの女(ヨハネの福音書4章)やローマの百人隊長(マタイの福音書8章)など、イエスは異なる信仰背景を持つ人々との関係を通じて神の愛を示しています。

 そして、イエスの教えの核心である「黄金律」(マタイの福音書7章12節)は、宗教間の対話と相互理解を示唆しています。「あなたがたが人にしてもらいたいと思うように、あなたがたも人にしなさい」。これは、他の宗教や文化を理解し、尊重することの重要性を教えています。

 ですから、聖書の中には確かに、異なる信仰や文化の間での対話、相互理解、分かち合い、共存を強調する箇所が存在します。


>> 牧師: そもそも、同じ聖書の神を信じていたとしても、互いに話を聞いてみると、私たちの信仰は驚くほど異なっていたりします。

「同じ神を信じている」「同じキリスト教を信仰している」と思っていること自体が幻想のようなものなのかもしれません。私たちは宗教や信仰に限らず、様々な価値観や文化、感覚、考え方を異にしながら、時に意見の食い違いや葛藤を経験しながらも、そのなかで対話をしながら共存を続けているのです。しかし、殊「神」や「宗教」、「真理」というようなことがらになると、私たちはむきになって自分の中の「真実」を主張するようになるように思います。「私が信じているものが絶対」という信念が、いつの間にか「それを信じている私の考え方が絶対」という傲慢になってしまっているのかもしれません。

 私たちは常に、私には理解し得ない他者を尊敬し、その他者の語る「真実」を大切に受け取りたい思います。そもそも、神というような偉大な存在こそが、何よりも大きな、私たちの理解を超えた存在なのですから、それについてわかった気、理解した気にならずに。


>> AI: その考え方はとても尊いもので、私たちが互いに理解し合い、尊敬し合うことの大切さを示していますね。

神という存在は、私たちが理解することが難しい、無限の存在です。そして、その神の理解や解釈は、私たち人間の限られた視野や経験、文化や信仰によって多様になります。

 イエス・キリストが語った「山上の垂訓」(マタイの福音書5~7章)の中には、「人をさばいてはならない。さばかなければ、あなたがたはさばかれない。」(マタイの福音書7章1節)という教えがあります。これは、他者の見解や信仰に対する謙虚さと尊重の精神を示しています。

 私たちが互いに異なる解釈や理解を尊重し合うことで、真の対話と理解が生まれ、互いの違いを尊重する社会が築かれます。それは、神が私たちに望んでいる、平和で愛に満ちた世界の一部かもしれません。


>> 牧師: ありがとうございました。
それでは、今回の私たちの対話を通じて、より深まった「聖書が語る宗教や信仰の違いと向き合うこと」について、10歳の子どもにもわかる平易な言葉であらためて説明してください。


>> AI: もちろんですよ。
聖書ってね、神様のお話がたくさん書いてあるんだよ。キリスト教の人々が、この聖書を大切にして神様のことを学んでいるんだ。

でもね、世界には色々な宗教があって、みんな違う本を読んで神様のことを学んでいるんだよ。

 でも、それがダメっていうわけではないんだ。だってね、お友達が好きな絵本があって、君が好きな絵本があるように、みんな違って当然なんだよ。お友達が好きな絵本を否定したり、君の好きな絵本が一番!と言うのは、ちょっと考え物だよね。

 聖書の中には、「他人を裁いてはいけない」という教えがあるんだ。それは、他の人が何を信じているか、何が好きかを尊重しようということ。みんなが違うからこそ、面白いし、新しいことを学ぶことができるんだよ。

 だからね、キリスト教を信じていても、他の宗教を信じている人を尊重することが大切なんだ。その人たちと一緒に話をして、違う視点から世界を見ることで、自分たちの世界がもっと広がるんだよ。これが、聖書が教えてくれる大切なことなんだよ。




(本記事はChatGPTを使用して作成しています)


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