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アマゾンプライムお薦めビデオ② 91 「分人主義」なんて別にどうでもいい、人間ドラマとしての傑作『ある男』

平野敬一郎氏の作品の映画化としては、『マチネの終わりに』の次、2作品目になるのだろうか。あの『蜜蜂と遠雷』『ARC アーク』の石川慶監督が手掛けた『ある男』は、その映画のとしての完成度の高さから、2022年を代表する日本映画となった。

この映画、映画の手法としてはある意味古いとも言える、古典的な映画の文法に乗っ取った作品である。しかし、だからこそ、今の時代には新しくもあり、斬新でもある。とにかく無駄がない。一つ一つのシーン、一つ一つの映像、一つ一つの演技がそれぞれに完璧で、そしてその結果全体としても完璧である。もちろん、部分の集合が全体ではないし、全体を分割したものが部分ではないことは、なにも映画に対してのみ言えることではない。しかし傑作とはその両方が、部分と全体が、見事に絡み合って一つのものとなっている映画のことを言うのである。そう、その意味でこの映画は完璧であり傑作である。出ている役者はみなすごい役者たちであるが、そこで行われているのは決して演技の競争ではない。それぞれが個性を出しつつ、そしてそれ故に全体として調和している。まさに映画としては100点としか言いようがないであろう。

そして、映画として100点であるということは、つまりはそこで描かれているのは「人間」という「存在」であるということでもあろう。そう、「人間という存在」これこそが原作者である平野敬一郎氏の永遠のテーマでもある。恐らくこの映画の監督である石川慶氏はそうではないであろう。石川監督は人間以外も、例えば自然や都市や機械といったものも映像として見事に表現できる人物である。その意味で、この映画はある意味ミスマッチなのかもしれない。しかし、だからこその化学反応がここにはある。作家としての平野氏は、人間=個人(individual)という存在を疑い、「分人」(dividual)という存在を提示した。しかし、これはある意味小説だから書ける世界であり、映像化は難しい。なぜなら、人は人ごとにそれぞれ違う側面を持つ、というある意味、我々にとっては当たり前の事柄は、役者が演じる人物はその人物として固定されている、という映画の仕組みとは根本的に異なるからである。つまり、ある人がある役を演じのであれば、そこにはある種のつながり(映画内でのつながり=一貫性)がなければならない。人として一貫性があるからこそ、人は、そもそも役者という存在が演じているある人物をある人物(=ある男)として見ることができるのである。

そして、これは言い換えれば、「役」と「人間」の違いでもある。「役者」とはまさにある人物の「個人性」としてのindividualを纏う人物なのである。しかし、人間はそうではない。人間は人間である時点で既に「その人」なのである。だから「その人」がどんなに矛盾した行為をしたとしても(例えば優しい父親が殺人犯であったとしても)「その人」は「その人」なのである。その人は子供にとっては「優しい父」であり、被害者にとっては「殺人犯」である。おそらく多くの人はそこに何らかの繋がり(=一貫性)を見ようとするだろう。その繋がりを見ることで安心しようとするであろう。しかし、現実はそうではない。同一性を持ちながら異質性を持っていること、同じ人でありながら違う側面もまた持っていること。ある意味それが人間であり人間としての本質だからである。

話を分人主義と役者の話に戻そう。分人主義とはその「異質性」のほうを強調した概念、人は人として一人でありながら、そこにはいろいろな顔がある、という考え方、人は対人関係に合わせて様々な顔を持っており、ある人がその人をその人として認識できるのは、たとえ恋人であってもその恋人に見せる顔に対してだけなのである、という考え方である。しかしここに、恋愛感情というものが入ってくると、話はそう単純にはいかない。恋愛においては人はその人のすべての面を見たい、知りたいからである。

一方、それとは逆に役者とはまさにその顔自体が一つの存在である存在である。しかし/そして、その顔、あるいはその「仮面」の裏にいくつもの人間を持つことができるのがまた役者である。あるドラマではいい人だったのが、あるドラマでは殺人犯だったりする。しかし、我々はそれを何の抵抗もなく受け入れることができる。これは「役」なのだから、この人は「役者」なのだからという理由からである。

では、「役」とは何なのか。「役」において「役者」はその「役」なりの統一性、一貫性を求められる。その「役」がシーンごとにばらばらであればそれはまさに「繋がらない」からである。しかし、繰り返すが「人間」はそうではない。繋がりがない、あるいは時と場合でバラバラだからこそ「人間」なのである。これはある意味この映画でも鍵となる「顔」とも関係しているだろう。役者は「顔」が一貫しているが故に「役」という一貫性を持たなければならない。しかし、そうではない普通の人々は「顔」が一貫しているが故になにをやっても、バラバラのこと、矛盾していることをやっても、それはその人として成立してしまうのである。

この映画において、基本的に役者は役者として役に徹している。この映画は、基本的には犯人、というか答え=真実、捜しとしてのサスペンスものである。しかし、同時に、それは我々見る側にとっては、「役」というものに人はいかに縛られているのか、「役者」ではなく普通の「人」であってもいかに「役」というものに縛られてしまっているのかをも提示することになる。例えば殺人犯の息子という「役」を与えられたのであれば、その人は、その「役」を徹底しなければいけない、それが自分の「役」=「役割」だと考えてしまう。もちろん冷静に考えればそれに対する答えは「No」である。そんな「役」に縛られる必要は全くない。やりようによるが、我々人間は与えられた「役」から逃れることはできるのである。そしてそうすることで、それがつかの間のものかもしれなくても、我々はその「役」では得られなかった「幸福」を得ることができるのである。しかし同時にそれが実に難しいということも、現実社会においてはそれがいかに困難であるかということも、この映画を見て、あるいは原作である小説を読んで我々が痛感させられることでもある。なぜならその「幸せ」もまたその家族にとっては与えられた「役」ともなりかねないものであるからである。こうやって「役」は連鎖し、そしてそれ故に人は自分自身を「役」として捉えてる方向へと走ってしまう。しかし、それでいいのか、それに対する問いを突き付けてくるのがこの映画であり、この映画の原作となった小説であり、そこで唱えられている「分人主義」なのである。

ということで、とにかくこの映画、映画としての完成度に加え、それが我々に何かを突き付けてくる、突き付けざるを得ない、という点でも傑作です。是非ご覧ください。「分人主義ってなに?」という人は当然それでかまいません。しかしこの映画をご覧になった後では、あなたは自分の「人生」を考えなければ、あるいは見つめ返さなければならないでしょう。小説とはまた違うアプローチでこの映画はその「問い」をあなたに突き付けてきます。そう、あなたが思っているあなたの人生は、あくまであり得たいくつかの可能性のうちの一つに過ぎないのです。やろうとさえ思えば、あなたにはいくらでもほかの人生を選ぶことができる/できたのです。ただ、それがほかの人をも幸せにするとは限りませんが。


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