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オリンピックの《団体種目》には、2種類ある (エッセイ)

パーティーなど、みんなが盛り上がっている時に、《興覚め》なことを言うなどして、その場をしらけさせたり、雰囲気を壊す人を、英語表現で、《A wet blanket》と呼ぶ。

オリンピックが始まった。
《Wet blanket》と指さされたくはないな、と人並みに世間体は気にしつつも、このタイミングで、ずっと以前から思っていることを書いておきたい。

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今回のオリンピックについて、開催意義・開催リスクなど、2013年の決定以前から抱いている個人の意見はあるが、ここでは触れない。
テーマは、《国別対抗の団体種目》について、である。

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表題の《2種類》とは:
・ひとつは、複数の選手が《チーム》を構成することに、純粋にその競技上の必然性がある《団体種目》(=複数の選手がいないと、競技自体が成立しないもの)
・もうひとつは、《チーム》内の個人の点数を足して競うのが《本質》である《団体種目》

前者には、サッカーやバレーボールのように、その競技ルール上、複数のメンバーが集まってチームを作る団体種目がある。こういう種目では、複数のメンバーが同じフィールドで、同時に、ダイナミックに競技する。
水泳のシンクロや新体操の団体も同様だ。

卓球やテニスのダブルスはもちろん、シングルスとは、違う種目、とまで言うのは大げさにしても、相当異なる頭脳と技能が要求される。

陸上競技や水泳のリレーは、その大部分の時間はチームの中のひとりが競技しているだけだが、いわゆる「引継ぎ」の巧拙が結果に影響することを考慮に入れれば、前者に含まれると思う。

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しかし、後者である。
《Wet blanket》呼ばわりされるのを承知で書くが、ずっと以前から、《体操の団体種目》には、小さな《違和感》を感じていた。

例えば、ある小さな国に素晴らしい選手がいて、個人種目で優勝した。しかし、彼は団体戦には出場できない。彼の国には、彼以外に有力選手がいないからだ。
その団体戦では、そこそこの選手が数人いた、ある大国が優勝した。
もし、私がその小さな国の選手だったら、
(そりゃ、ないよな)
と思うだろう。
優勝チームのキャプテンが、インタビューに、
「チームワークの勝利です」
と答えるのを聞いたとしたら、
(何言ってんだ、こいつ)
と顔をしかめ、続いてその《やるせない気持ち》は、そもそもこんな《団体競技》を認めた、オリンピック委員会に向かうだろう。
(お前ら、何やってんだよ! オリンピック憲章って何のためにあるんだよ。《憲章6》を読んだこと、あるのかよ!)

冬季オリンピックで、いわゆる《日の丸飛行隊》がメダルを取った時も、選手たちに声援を送り、《活躍》に拍手を送りながらも、その《違和感》は膨らんでいった。

そして、ソチオリンピックである。
《フィギュアスケート団体戦》が始まった時、
(この団体戦って、《国威発揚》以外の意味、あるの?)
《必然性》に大きな疑問を持った。

こうした《団体種目》は、どれだけでも増やすことができる。個人種目のほぼ全ての《団体種目化》が可能でさえある。
短距離走だって、高跳びだって、いくつか組み合わせて、国別対抗の《団体種目》にできちゃう!のだ。

ちなみに、シングルスとダブルスを組み合わせた卓球の団体種目(=国別対抗)は、誰をどちらにどの順で出すかなど、作戦面での機微はあろうが、やはり後者に属すると思う。

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ある時、呑み屋でそんな話をしていたら、ひとりが、
「でもさ、団体戦って、すごく盛り上がるんだぜ」
と言った。
「俺、高校時代、柔道部だったんだけど、個人戦よりも5人ずつで戦う学校別対抗の団体戦の方が、断然、盛り上がるんだ。応援団だって、個人戦以上に力が入っている」

なるほど。
《すごく盛り上がる》

それが動機だろう。
国威発揚にも視聴率アップにもつながり、国家(《チーム編成》ができる規模の国に限るが)も、ビジネス面でも、誰も反対はしない。

オリンピック憲章(最新の2019年版)の憲章6、「オリンピック競技大会(The Olympic Games)」には、

《オリンピック競技大会は,個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない》

「オリンピック憲章6」より

と明記されている。

サッカーやバレーボールのように、前者型団体種目を応援している時、我々の心の中の《ナショナリズム》は、かなり《自然に》発揚されていく。

《興業》にかかる費用は、税金とスポンサー企業からもたらされる。
競技が、ある程度、《国家主義》《商業主義》と鼎立せざるをえない現実は、避けられないだろう。

しかし、《国家主義》と《商業主義》以外に《必然性》のない(=合理的に説明できない)《団体種目》をどんどん増やして、結果的にナショナリズムを《不必要に》煽るのはどうだろうか?
どこかで線を引くとしたら、この《2種類》の間ではないだろうか。

もちろん、オリンピック以外で《後者型団体種目》を否定するものではない。
私自身も、《母校ナショナリズム》や《地域ナショナリズム》をそこそこ持つ、フツーの人間である。
高校の応援団が声を涸らしている横で、Wet-blancketな発言はしないし、考えもしない。

でも、オリンピックのように大きな金が動き、影響力の大きな《場》だかこそ、《憲章》に記された《建前》をなし崩しに壊していくのはやめて欲しいな、と思うのであーる。

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