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ふかふかのおふとんに込められたもの

朝、いつものように布団をたたんでいるとき、ふとある光景が頭をよぎった。

それは、実家でわたしがいつも寝ていた、ふかふかのベッド。

母がいつも、きれいにベッドメイキングしてととのえてくれていた、ふかふかのベッドだ。

夏の暑い時期にはサラサラのシーツにタオルケット。タオルケットは、春や秋には綿毛布や掛け布団にかわり、冬には厚めの毛布と羽毛布団へとかわり。そのころになるとシーツもいつのまにか、もふもふ素材の温かいものへとかわっている。

枕には清潔な枕カバーとタオル。掛け布団はきれいに重ねられていてピシっとうつくしい。

いつなんどき、そのまま飛び込んでもスーッと気持ちよくねむれそうな、あのふかふかのベッド。

私が寝て起きた直後の、ぐちゃぐちゃな状態のときを、のぞいて。


*   *   *


その偉大さを初めてちゃんと認識できたのは、やはり大人になってひとり暮らしをはじめてからだったと思う。

こどものころの私はともかく、(当時は一人前だと錯覚していた)高校生くらいになっても、わたしはそのふかふかのベッドに対するありがたみをちゃんとは認識できていなかった。

ひと晩寝て、朝起きるとぐちゃぐちゃになっているベッド。ぎりぎりまで寝て、ねむいねむいと言いながら着替え、バタバタと学校へ出かけてゆく。ベッドはそのまま。

でも夜ねむるときには、いつもの、ふかふかのベッド。きれいにととのえられたベッドが「さあどうぞ」と迎えてくれる。

ぐちゃぐちゃがひとりでに整頓されるなんて、まるで魔法のベッドだ。だがそのことはあまりに当然に存在していて、意識することすらあまりなかった。

いやいや、さすがに中高生くらいになれば母からも「自分のベッドくらい自分でととのえていきなさいよ〜」と何度も言われていたのだった。気が向けば自分でととのえることもあったのだが、たいていは「へいへい〜」と返事だけして、あまり深く考えていなかった。

とにかく、ありがたみやその大切さを、ちゃんとは認識できていなかったのだ。


*   *   *


大人になりひとり暮らしをするようになって、さすがに自分で寝具を整えることを学んだ。だがとうてい、母の用意してくれたあのふかふかのおふとんには到達しない。

今でも実家へ帰ると連絡すれば、父は布団乾燥機をかけて布団をふかふかにし、母はカバーを洗ってシーツを替え、寒くも暑くもないようにと、寝床を気持ちよくととのえる準備をして、私たちを迎えてくれる。

いま、自分が家庭をもつようにもなり、その作業にひそむ愛を知る。

毎日のごはんももちろん、偉大なる感謝の対象だ。だが、その重要性は意外と、認識されやすい。いつもごはんをつくってくれてありがとう、というセリフは幼稚園でもいっていた(いや、母の日用にならうのかもしれない)し、高校生や大学生くらいになればだんだんその大変さも自覚できる。

だが寝床をきもちよくととのえる、というのはまた、ごはんよりも気づかれにくいが、これもまたたいへんに深い感謝の対象だと思うのだ。

ごはんは生きるうえで必須だけれど、寝床をととのえることは必須ではない。ごはんを食べないと死んでしまうが、寝床がぐちゃぐちゃでも人はまあ眠れるし、生きられる。

ごはんは、食べたらなくなってしまう。だから買うにしろつくるにしろ、いつも用意する必然性がある。

だがベッドやふとんは、そこにいつもある。なくならない。だから、きちんと整えた状態を用意しなくても、物理的に寝ることはできる。

だから、きちんと整えられた寝具は、最高の嗜好品なのだ。

人は人生の3分の1は寝ている、とよく語られる。そしてそれは決しておおげさではなく、多少個人差はあれど、事実である。

生涯において少なくないその時間を、少しでも心地よくすごしてほしいという思いから、ふかふかのベッドや布団がととのえられる。

「ここで、ゆっくりぐっすり、気持ちよくねむれますように」

ふかふかのおふとんに込められた、そんなだれかのやさしい愛を、その子が知ることになるのは、だいぶ先の話。


自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。