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図書館と電車(とnote?)の共通項

図書館やローカル線の電車の中が、こどものころから好きだ。

大学生くらいになるとそれに加えて、ちょっと落ち着いたカフェなんてのも好きになった。

もちろんそれぞれ、本が読める、おでかけできる、おいしいコーヒーが飲めるという意味でも好きなのだが、プラス、それらの「空間」を構成する要素がとても好きなのだ。

図書館、ローカル線の電車内、落ち着いたカフェ。

自分なりに感じとっている共通項は、「なんの接点もないひとびとが偶然、同じときに同じ空間を共有していて、かつ各人がまったく別々のことをしながら、それでいて他者の時間を妨害することもなく、思い思いの時間を過ごしている」というところ。

ちょっと長くてまどろっこしいけれど、このすべてを満たしてくれているところが、たまらない。

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人生のなかで最初に感じたのはたぶん、図書館。

学校の図書館よりも、どちらかというと地域の公共図書館のほうだ。大人もこどもも関係なく、老若男女いろいろな人が訪れる、あの図書館。

ソファで雑誌を眺めるおばあちゃんがいたり、新聞を難しい顔でめくるおじいちゃんがいたり、ママと絵本を選ぶ赤ちゃんがいたり。分厚い本を横に並べて調べ物をするお兄さんやお姉さんもいる。

そんななかで、小学生のわたしはひたすら、こども向けの小説の棚を何度も往復する。両手に貸出制限いっぱいの本を抱えるまで、「今週の貸出分」の厳選を重ねて。

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そうやって、目的が人によって異なる、というのがいい。みなそれぞれの思いにふけっているので、「かまわない」感じがいい。

言いかえれば、尊重しているのだ、そのひとの時間を。

だから電車の中というのも、平日の通勤通学ラッシュではなく、平日の日中や休日なんていうときがいい。みんなバラバラの目的で乗っているときがいいのだ。

部活のジャージを来てラケットを持っている高校生がいたり、日曜日だけどスーツのビジネスマンがいたり、友だちと遊びに行く大学生がいたり、子連れでおでかけのファミリーがいたり。

みな、バラバラの思考をしながら、それでも偶然、この日このときに同じ空間を共有している。バラバラの時計がそこだけ、共有されている感じ。いろんな人生の一部が、いっとき、つまっている感じ。

そしてみな、それぞれの目的地で降り、また別々の時計を別々の空間で刻んでゆく。

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余談だが、個人的にはコワーキングスペースよりも、普通のカフェの方が仕事がはかどる。コワーキングスペースの方が、周りもみなちゃんと仕事している分、よっぽど仕事しやすいという考え方も頷けるのだが、私の場合はダメなのだ。

いや、別にできなくはないのだけれど、「働く場所です」と銘打たれた場所にいると、なんといったらいいのか、思考の余白がないような気がしてしまって、あまり落ち着かない。いまではインテリアがカフェ風のオシャレなコワーキングスペースも多いけれど、内装の問題でもないのだ。

学生が参考書を広げてくれていたり、おじいちゃんが読書していたり、スーツのビジネスマンが商談していたり、お子さんを連れたママ友同士が話に花を咲かせてくれていたほうが、よっぽど落ち着く。

ああ、安心して、私も私のことをしよう、と思える。

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根源には、きっと、ひとの脳内ってうちゅうだ、みたいに思ってるところがあるんだと思う。

これだけ自分の脳内でもいろんなこと考えているのだから、この空間に静かに座っている(立っている)人たちの脳内には、どれだけバラバラのストーリーがあって、どれだけいろんな思考が広がっているんだろう、って。そこへ思いを馳せて、勝手に楽しんでいるのかもしれない。

ここまで書いてはじめて、あ、そうかnoteもそれを垣間見ることができる場所だから、他のSNSよりもわたしはこの場所が落ち着くのだなと気づいた。

リアルの空間でなくとも、みな思い思いに過ごして、それぞれの作品づくりに取り組み、それをしずかに尊重しあえるというところはいっしょ。そして作品は、リアルなイベントそのままを投稿するSNSともちょっと違う。

ほかの人の脳内に出会えるのは、とてもおもしろい。ああ、書きながら腑に落ちた、なるほど。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。