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振れ幅はおおきいほうが気持ちいい

あっちへいったりこっちへいったり、頭のなかがいそがしい。

土曜日は普段脳みそを使わない分野のインタビューをして心地よく疲れ、日曜日は娘を連れて家族で牧場へ行き、牛や羊とぞんぶんにたわむれて心地よく疲れた。今日は朝から夕方まで娘のアレルギー負荷試験で小児科にカンヅメになって疲れ、帰ってごはんを作ったあとは夫に子を託して、わたしはひとりフラの練習に出かけてまた心地よく疲れた。

家へ帰ってきておふろに入り、ようやく一息ついて何かを書こう、と思う。思うのだけれど、あまりにネタが多すぎるとそのどれも、詳しく書きたいという気分にならないのはなぜだろう。なんだか不思議なものである。

そういうときはわたしの場合、無理してどれかについて書きはじめても、「ああ、なんかちがうんだよなあ」という文章にしかならないので、おとなしくこんな浅く広い文を書いている。

でもなんだか、まったくちがう分野にバン!バン!と脳が切り替わるのって、気持ちいいのだよなあ。

カフェでPC開いてカタカタやっているのもわたしだし、広い牧場の片隅で「羊の餌やり体験」に娘より前のめりではしゃいでいたのもわたし。朝から片ゆで卵を作って白身と黄身をわけ、小児科の観察室で1g単位に計測された黄身を食べさせているのも、同じ日の夜にフラのお稽古でステップに苦心しているのも、等しくわたしである。

こうやってふと落ち着いて、そんな自分をふりかえるとき、やっぱり不思議な気分におちいることがある。どれもが自分じゃないような、すべて夢のなかだったような。いや、そんなことはないとわかっているのだけれど。

単純に、いろんな世界をもつことは楽しいよね。

その場にいけば、その他のときにわたしがどんな顔をしているのかなんて関係なく、わたしはそこにフラットな状態で存在することができるから。

ちいさな気分のリセットがたくさんある環境は、とくに子育てや介護など、地続きに近いことを日々やっている生活にはとてもうれしいことだと思う。いろいろなひとが集まるコミュニティに存在することで、たとえば「いま子育てをしている自分」というポジションを、客観的にとらえたりすることもできる。子育てコミュニティだけに顔を出していると、こうはいかない。

母でも妻でもないフラットな自分として存在できる時間があることは、とりあえずわたしにとって、心身の健康を保つとても大切なことだ。

あっちへいったり、こっちへいったり。

たとえば街と自然、仕事と遊び、文化系と体育系、まじめとふまじめ。

自分の心地よい範囲はひとそれぞれあると思うけれど、その枠ぎりぎりまで、振れてみるのもわるくない。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。