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鉄板焼きと、デートの効能

ものすごくひさびさに、夫婦でデートをした。

思えば今年のバレンタインは、夫が出張中なこともあってわたしは華麗にスルーを決めていた。昨年までは夫の会社の同僚にまで行き渡るよう地味にチーズケーキを焼いていたというのに、今年は夫にすら何もしなかった。

というか、娘との日々を切り抜けるのに必死で、当日は今日がバレンタインだということに気づきもせず、ひたすらふつうの木曜日を過ごしていた。

“ああ、今年はバレンタイン、何もしなかったなあ”。

そんなふうに思えたのは、バレンタインを過ぎて一週間ほど経ってからだ。あのやけ酒noteを書いてようやく、前週からずっとくすぶっていた灰色の感情を消化することができつつあったから、だと思う(noteづてに気持ちを寄せてくださったみなさん、ほんとうにありがとう)。

とにかくそんなわけでバレンタイン、気づいたら終わってたなあと思い返していて、突然、忘れていたあることを思い出した。そうだ。バレンタインって実は、我々夫婦の結婚式を開催した日でもあったじゃないかと。

ふとその事実に思いあたり、思わず夫にもつぶやいてみたら「ああ!そうだねえ」という“今気づきました感”満載のリアクション。

いや、わかる。まだ丸3年が経っただけだというのに、すでにあの日の記憶ははるか彼方だもの。子ども中心の日々を送っていると、あの日のことは夢だったんじゃないか?とすら思える。自分自身があんなにも「主役」になる日は、きっともう人生で訪れない。

* * *

もともと今月は、ひさびさに夫婦ふたりで過ごす日をつくろうと、“心身のメンテナンスデー”を予定していた。

ここで特別なことをしよう、と話していたわけではなかったのだが、今回はわたしの“やけ酒案件”に加え“結婚式記念日とバレンタインの完全忘却”などがあり、なんだか夫婦でいろんなことに反省をし、たまにはちょっと奮発して特別なランチでもしようという話になった。

さあどこに行こうか。そう考えたとき、それまでの話の流れから素直に、式をあげた会場のことが思い浮かんだ。

私たちが両家家族のみで小さく式をあげた会場は、レストランやバー、カフェなどが併設されていて、ちょっと特別な日のランチやディナーにはぴったりなのだ。……なんてさもわかったふうに書いてみたけれど、式をあげて以降、そこへ食事をしに行ったことはあっても子が生まれる前に1度くらいで、子が生まれてからは存在すら思いつかない日々を送っていた。

せっかくのひさしぶりすぎるデートなので、普段はできないことをしよう。そう思い、その会場に併設されたステーキハウスでランチをすることに決めた。

当日、午前中はお義母さんの誕生日プレゼントを探したり、夫のぼろぼろなリュックに代替する新しいリュックを吟味したりして過ごし、昼ごろ、てくてくと目当てのステーキハウスに向かう。

そのお店に足を踏み入れるのは初めて。ステーキということばから、何やらテーブルクロスのかけられた机に、焼き上がったステーキが皿に盛られて「どうぞ」とサーブされるような、ちょっとそわそわして落ち着かないイメージを想像していた。けれど入ってみたらそこは「鉄板焼き」スタイルのお店でほっとする。一歩入ってその景色を目にした瞬間、いいな、と感じた。

大きなコの字型のカウンター席は、すべての席で目の前が鉄板になっている。調理人はコの字の内側にいて、客は目の前で焼き上がる野菜や肉を臨場感たっぷりに眺めながら、熱々をいただくことができるスタイルだ。

お店のスタッフの方にリードされ、当然のようにそのカウンター席に通され、あ、と思う。これは、デートっぽい。そうか、こういうカウンター席って、デートっぽいんだ。唐突にそんな気づきを得る。

小さな子連れの外食はわりと戦場である。重視されるべきは子の機嫌を損ねずに腹を満たすというミッションを完遂することであり、そのために求められる仕事はメニューを決める迅速さや、食べさせ係、掃除係などの分担や、前半と後半で食べさせ係を交代する、などの臨機応変な連携プレーであり、そこに完全なリラックスや穏やかな会話というものはない。

……という普段の食事のさまざまな状況が、一瞬で走馬灯のように頭のなかをかけめぐるほどの衝撃が、鉄板焼きカウンターの横並びの二人席にはあった。

夫の横に直接座り、子の口元ではなく夫の目を見ながら話すという構図。そして、目の前にはどう考えてもこれから美味しいものが出てくるとわかる美しい鉄板。てきぱきと立ち回る調理人の雰囲気。落ち着いた、大人だけしかいない客層。……デ、デートっぽい!

最近デートらしいデートをしなさすぎてよくわからなくなっていたのだが、そうか、落ち着いた大人しかいなそうなお店のカウンター席にふたりで座るって、もうそれだけでなんだかデートっぽいんだな、とやたら感心し、新しい知識を得たようなまじめな気持ちで席に座った。

* * *

そこからの時間のことは、ていねいに描写しすぎるとものすごく長くなる。

端的に言うと、わたしはずうっと感動していた。いちいち感動していた。

たとえば昼間から堂々と飲むスパークリングワインのとびきりの美味しさに、供されるすべての食材に対し目の前で「こちらが◯◯産の△△になります」と説明される数年ぶりの感覚に、ついでのようにさりげなく出されたサラダのドレッシングが自家製でめちゃくちゃ美味しくて不意打ちをくらったことに、調理人の流れるような鉄板焼きの所作に、生わさびの上品で繊細な風味に、箇条書きでも書ききれない以下略の数々のポイントに。

なかでも、調理スタッフが目の前で食材を焼き上げてゆく流れるような所作は、あまりに美しくて現実味がなくて、わたしはただ呆然と、そしてうっとりと見とれてしまっていた。担当してくれたのはわたしより若そうな女性スタッフの方であったが、それはもう慣れた手つきで、無駄なく、焼き加減の寸分の狂いなく、安定感のある動きで食材を焼き上げてゆく。

なんだろうかこの感覚は。あまりに美しくて、感動的だ。

自分のなかに予想だにせず生じた、あまりの感動とうっとりに、その根源を探っていったら「ああ」と思い当たった。そうか、これは所作の美しさはもちろんのこと、「目の前で、誰かがわたしのために美味しいものを調理してくれている」という体験そのものにも心が震えているんだ、と。

たぶんこの種の感動は、20代のときの自分にはあまりなかった。30代、結婚して子が生まれ、完全に「日々ごはんを供するひと」になったからこその感動なのだと思う。

そしてレストランでただサーブされるのとも、実家で出てくるごはんともまた、ひと味違う。

鉄板焼きというのは、目の前で「調理の過程」をまじまじと、それすらも料理の味わいとして楽しむ体験である。こんなにも、「誰かがわたしのために美味しいものを調理してくれている」過程をまじまじと見つめ、味わう機会があってよいのだろうか。予想だにしなかったあまりの感動の背景には、こういった感情が含まれていたに違いない。

思えば美しい鉄板に油が垂らされたその瞬間、わたしの心はすでにうっとりとしていた。まだ食材は何も乗せられていないのに、である。

あまりにうっとりが顔に出ていて、調理人に(おそらく横に準備された食材のほうに見とれていると勘違いされて)「お写真とられますか」と声をかけられたほど。

ちがうんだ、わたしが見とれてしまったのは油が垂らされた、そのまだ何も乗っていない鉄板の方なんだと思いながら、いや、なんでこんな光景にすでにうっとりしているのだろう、と自分でも測りかねていたのだけれど、やっとわかった。

あの光景は、料理がはじまる合図だからだ。

自分が料理する側で毎日見ている光景を、誰かが目の前で「今からあなたのためにとびきりの料理をしますよ」と見せてくれた。

それだけのことが、もうたまらなく特別で、美しくて、夢みたいで、うっとりしていたのだと。

* * *

肝心のお味のほうも、すばらしく美味しかった。

ミディアムレアに焼き上げられたステーキを、(チューブではない)上品な本わさびと醤油でいただくのは、大人になった喜びが感じられた。軽やかなわさびと、上質な赤身肉のハーモニーに、夫と素直に感動した。

さらに個人的に衝撃を受けたのは、野菜の旨さである。

れんこんもなすもじゃがいもも、なんだか聞いたことのない野菜も、「焼いただけ」なのに信じられないくらい美味しかった。焼いただけなのに、焼いただけなのに! そう心のなかで叫びながら、同時に思った。ああ、普段わたしに調理されている野菜たちよ、ごめん。申し訳ない。許してほしい。

そして藻塩が追い打ちをかける。塩の旨さは、確実に野菜の甘味を引き立ててくれる。油を惜しまず焼いてちょっと塩をつけただけの野菜たちが、信じられないくらいにうまい。

ほんとうにごめん、野菜たちよ。君たちはこんなにポテンシャルがあったのか。スパークリングワイン1杯で十分ほろ酔いになった頭で、数々の感動に打ちのめされ、最終的にひたすら、わたしは野菜に詫びていた。

* * *

鉄板焼きをあとにして、また少しショッピングをして、カフェでお茶をして、いろんな相談話をしたりした。話している内容はいたってまじめで、なんの色気もない会話だったけれど、子どもを中心とした話ではなく、自分の考えていることについて深く話すというのはとても、デートっぽかった。

そして一番強調したいポイントは、こういった時間を過ごさせてもらったあとに会う娘は、尋常じゃなくかわいいということである。

さらに確実に言えることは、娘に接する親側の「心の余裕メーター」がフルチャージされていて、一挙手一投足がすべて愛おしく感じられ、おおらかに笑って接することができるようになるということだ。

普段なら「はあ……(またか)」とため息をついたり、もういい加減にしてよといらっと怒鳴ったりしてしまうようなことも、フルチャージ状態ならば微笑んでさとしたり、教えたり、笑って一緒に遊んだりすることができる。

娘がまったく同じ行動をしたとしても、親の心の余裕メーターのチャージ具合によって、招く反応が変わるのだ。娘もたまったものではなかろうに、申し訳ないが、それが事実というものだ。

だから何が言いたいのかというと、言いたいのかというと……、すくなくとも私たち夫婦にとっては、こういう時間が不可欠だし、子を預けてでもその時間を確保することが、子の笑顔にも結局つながっている気がする、ということだ。

だから結局、何が言いたいのかと言うと……また、デートしたい。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。