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シェアハウスのラウンジみたいに

ふと気づいたのだけれど、20代後半はそういえば、だれかとシェア暮らしをしている期間のほうが圧倒的に長かった。

誤解なきように言うと、ベースとなるわたしは大勢でわいわいやるよりも、ひとりを好むほうだと思う。社会人になって実家を出て、3年弱はひとり暮らしを満喫していた。旅も気楽なひとり旅が好きだ。

きっかけになったのは、わかりやすく海外生活だと思う。最初は南の島フィジーでのホームステイにはじまり、語学学校の寮での共同生活、それからひとりオーストラリアに行って、都市部の繁華街マンションでの多国籍10人以上のシェアルーム、その後郊外で、多国籍オトナ女子4人でのシェアルーム。

都市部を出てからは、田舎のファーム(農家)を数週間ごとに転々としながら、8箇所くらいの家庭をまわって寝泊まり。半日ほど農作業や家事を手伝うことで、食事と宿泊場所をもらえる、WWOOFというしくみがあるのだ。このときは個室が与えられることが多かったけれど、同じような他のヘルパーとシャワーやリビング、洗濯機や冷蔵庫を共用で使ったりすることは常だったし、同室のこともあった。

そんな海外生活ですっかりシェア暮らしに慣れてしまったのと、日本に帰っても外国の方と知り合いたいなあなんて動機で、帰国して東京で働きはじめたときも、とある大規模なシェアマンションを選んだ。当時、外国の方が多く住んでいたのだ。それをきっかけに、その後友人たちともシェアハウスをしてみたりもした。

30歳になる直前、いろんなタイミングが重なって、シェアのスタイルにちょっと疲れたなってこともあって、また1年ほど悠々自適なひとり暮らしをして。ひさしぶりのひとり暮らしもまた、とても気楽で、楽しかった。ああ、わたし、いろいろ無理していたんだなあ。自分好みの暮らしを思うままに創造できるひとり暮らしに戻って、なんだかそんなふうにしみじみと思った。

20代後半のころは、「枠を広げたい」という思いでいっぱいだった。広げたい、広げたい。自分の可能性が、どんどん狭まっていくことが怖かったのだと思う。広げたい、その一心で海外に飛び出したり、海外で働いてみたりした。本来の自分の気質とはちょっと違うところもあるシェア暮らしも、「家賃が安くなるし、いい経験になるから」という理由で、積極的に選択していたのだ。

実際、場所を変えながら合計で5年ほどつづいたシェア生活は、疲れやトラブルもあったけれど、やっぱり楽しかったし、とてもいい経験になった。総合的に、やってよかったなと思っている。

* * *

どうしてひさびさにそんなことを思い返したのかというと、昨日の夜、noteってシェアハウスのラウンジみたいなだな、とお風呂にはいりながらぼうっと思ったからだ。

昨日は娘の心臓カテーテル検査を終え、夕方に娘の付き添いを夫にバトンタッチして、わたしは家にいったん帰宅した。ほんとうは疲れきっていて、今日はもうnoteになんにも書き込まずに寝ちゃおうかな、と思っていた。

まあとりあえずお風呂にはいろう、と思ってお風呂にはいったら、湯船につかっているうちにぼわわと妄想がふくらんで、気が変わったのだ。

数日前のnoteに娘の検査入院のことも書いていて、そこにコメントを寄せてくれた方や、twitterでリプライをくれた方、ふだんやりとりをしている方など、ぼわわ、と頭のなかにみんなの顔(ほとんどアイコン)がちらちらと浮かんできたのである。ほんとうに、一部だとは思うけれど、もしかしたらちょっと「どうだったのかな」なんて気にかけてくださってる方もいるかもしれないぞ、と。

自意識過剰なんだろうし、思うほど他人は自分のことなんて気にしていないんだろうなと思いつつ、べつにそれでもいいなあ、と思った。とりあえず、だれの目にふれるかもわからないけれど、つぶやきでもいいから、ちょっとおいておきたいな。そんな気持ちになった。

そんなことを湯船につかりながらぼんやり考えていて、ふと、ああこの感じ、シェアハウスのラウンジに似ているなあ、と思い当たったのだ。

「ただいまー」「おかえりー」「はあ、疲れた……。もう寝たい」「お、おつかれ。仕事ー?」「いや、実は今日娘の検査入院があってさ」「あー。言ってたね。それ今日か。どうだったの?」「うん、おかげさまで、とりあえず検査は無事に終わったよ」「そうかー。よかったねえ」「うん、ありがとうー」「心配してたもんね」「うん、やっぱり命にかかわることだからね。まだ手術が控えてるから本番はこれからなんだけどさ。ひとまずはホッとしたよ」「うん、そうだね。よかったよかった。ほんと、おつかれ。あ、ドーナツあるけど、いる?」「いるー!」

そんな感じ。

それぞれ会社だったり学校だったり、自分の生活をして疲れて家に帰ってきて、そこで1日のできごとだったり最近のことだったりを、まったく属性のちがうひとたちとおしゃべりする。共通点は、そのシェアハウスに暮らしているということだけ。職業も年齢もライフスタイルもばらばらだ。

昼間、身を置くコミュニティとはまったく異なるコミュニティがそこにあることに、当時はとても刺激を受けたし、安心もした。

友人と立ち上げたシェアハウスは別として、その他のシェア暮らしは、もともと友人同士というわけでもない。近すぎず遠すぎず、ただ住空間を共有している独特の距離感がむしろ心地よかった。でもタイミングがあえば一緒にごはんをつくって食べたりもする。友人というよりは、家族に近い。それでいて、立ち入りすぎない。

たとえば会社でストレスを感じた出来事があったり、恋愛に悩みを抱えてだれかに話を聞いてほしい気分だったり、ただごはんを作ろうと思ってリビングやラウンジにいくと、そこにはたいてい、誰かがいて。

べつに、必ず話さなくてもいい。むこうもそこで、自分のごはんを食べていたり、テレビを見ていたり、だれかとしゃべっていたり、本を読んでいたり、自分の時間を過ごしているからだ。

気楽におしゃべりしたい気分のひとはおしゃべりしてていいし、読書したりPCに向かって仕事したり、黙々と内面に向き合っていたいひとは黙々と自分と向き合っていても全然、いい。

でも、ちょっと誰か話聞いてくれないかなあ、と思って話しかけたら、「うん、聞く聞く」といって話に耳を傾けてくれるひとがいる。完全に集中してひとりきりになりたいひとは、そもそもシェアハウスを選択しないし、たとえ住んでいても、集中したいタイミングではラウンジやリビングに出てこないからだ。

だから安心して、「共有」することができる。とるにたらない、今日のこと、いま自分の頭を占めていることなんかを。

* * *

そんな性質がすべて、ああ、noteっぽいなあ、なんて感じた。

もくもくと自分の作品をアップしつづけるひとがいてももちろんいいし、他のひととおしゃべりを楽しむひとがいるのももちろんいいし。ごはんをつくるひとがいてもいいし、仕事をしているひとがいてもいい。

ラウンジやリビングに毎日いるひとがいてもいいし、平日や週末にしかあらわれないひとがいてもいいし、数ヵ月ぶりにふらっとあらわれて「ひさしぶりじゃん!」「そうそう、仕事忙しくってさー」みたいなひとがいてもいい。あらわれたタイミングで、たまたま居合わせたひととおしゃべりがはじまったりもする。

ふだんは別々にごはんを食べていても、たまに気が向くとパーティを企画してみたり。気が合う人が見つかって、いっしょにおもしろいことやろうぜ、なんてタッグを組んでみたり。べつに無理にそれに参加しなくてもいいし、参加しないことで揶揄されなくていい。

共通しているのは、「noteにいる(住んでいる、部屋がある)」みたいな感覚なのかもしれないなと思った。

人見知りだ、コミュ障だといっても、完全にひととのつながりをたってひとりきりになりたいひとはたぶん、ここに住まない。他人と何かを共有したくて、それでいて近すぎず遠すぎず、心地よい距離感を求めて、ここにたどりついたひとたちが大勢いるような気がする。

「あー最近ラウンジ行けてないなー。行きづらいなー」なんてひとも、自分が来たいタイミングでふらっともどって来て、いい。「あ、おかえりー」なんて声をかけてくれるひとがここにはいるんだと思うし、まだいなくても、たまに顔をだしていればちょっとずつ顔見知りが増えていくはずだ。

ちょっと最後きれいにまとめすぎてるわ、なんて笑われても、べつにいい。え、やっぱり?って笑い返せるから。そんな空気を、少なくともわたしは感じている。シェアハウスのラウンジみたいに。

(おわり)

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P.S.今日娘が無事退院しました。手術は夏ごろまでにする見込みだけれど、時期はまだ未定。病院側としては、緊急手術なども入るので予定は流動的らしくて、私たちは1週間前くらいに「来週から入院で!」とか言われることもあるらしい。手術後の回復も含めて1ヵ月ほどの入院になりそうなんだけど、そんな直前にわかるとなると仕事の予定調整難しすぎると思わない? 遠方だけど両家両親とも協力体制を築いて乗り切るしかないよね。あー今日はもう寝よ。え、まだ寝ないの?じゃあお先ー。おやすみー。(みたいなね)

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。