見出し画像

見える日常、見えない日常

ふだん制服姿を見慣れているひとの私服姿に偶然でくわして、どきっ!としたことはないだろうか?

昨日の夕方、いつもお世話になっている病児デイケアに娘を迎えに行った。

特に症状に変化がなければわりとスムーズに帰れるのだが、その日はいろいろと先生から説明があり、帰りが遅くなった。

スタッフ用の出口を案内され、薬局で薬をうけとり、階段をおりる。

私服姿の彼女を見かけたのは、そのときだった。

* * *

彼女、というのは顔見知りの看護師さん。

勤務がおわり、ちょうどスタッフ用の出入り口から出てきたところだった。

普段見ているのは白衣にナースキャップ、の姿ばかり。見慣れない私服姿に、なんだかどきっとする。髪をおろし、私服に着替えた看護師さんは、街中でよく見るちょっとおしゃれな女性だった。

その院は人気なので、看護師さんたちもたくさんいるが、皆めちゃくちゃ忙しそうである。朝から順番待ちで列ができるほどの外来対応にくわえて、アレルギー負荷試験の対応、病児デイケアの対応も回している。

正直、外来患者としか来ていなかったころは、「なんでこんなに待つんだろう……」と思っていた。が、負荷試験やデイケア、点滴やレントゲンなんかでも頻繁にお世話になるようになってから、「こ、これだけのボリュームを外来対応の裏で、同時並行で回していたなんて……。むしろすごすぎる!」と驚嘆することになった。

なにがいいたいかというと、だからその院での看護師さんは、比較的戦闘モードなのである。こわいわけではないが、ほんとうに回している内容がボリューミーなので、必要以上の笑顔もなかなか見られない。大変そうだ。

だからこそ、私服姿の看護師さんを偶然目にしてしまって、そのギャップにどきっとした。

仕事モードから、プライベートモードへ。戦闘モードから、平穏モードへ。

私服の看護師さんは、どこにでもいる同世代の女性だった。わたしが知り合いじゃなかったら、たとえば街中で信号待ちしているときにそばにいたって、白衣姿で戦闘モードな彼女は思いつきすらしない。

“きょうも、おつかれさまでしたー”

心のなかでそうつぶやきながら、街のなかに溶け込んでゆく彼女を見送った。

* * *

…はずだったのだが、なんとその後に立ち寄ったスーパーで、またもや偶然彼女に遭遇してしまった。

娘を抱っこひもに入れたわたし。ヨタヨタと入り口を入ろうとしていたとき、別方向からサッと中へ入っていくひとがいて、よく見たら彼女だった。

あ、看護師さんだ、と思って何気なく目で追う。わたしが重たい腰をひきずってのろのろ歩いている間に、彼女はスーッと中へ歩いてゆく。

お買い物かなぁ。まあそんなにじろじろ見るのもよくないか、と思い、わたしも自分の買い物をすませようと歩き始める。

またふと顔をあげたら、レジを通ったあとに荷物をつめる台のところで、旦那さんらしきYシャツ姿の男性と合流し、荷物を入れるのを手伝っていた。

“ああ。そうかぁ、そうだよなあ”。

と、なんだかひどく納得する。

これもまた、彼女の日常なのだろうな、と思う。

仕事がおわったら、旦那さんと待ち合わせたりして、買い物して帰って、ごはんを食べて。

たとえば自分の友人が看護師で、と考えると、むしろなんの違和感もなく受け入れられるそのイメージ。仕事モードでしか接していないと、なかなか、想像することを忘れている。

* * *

街ゆくひとびと。

だれだって、だれかの娘や息子だったり、だれかの父や母だったり、姉だったり弟だったりする。その顔での日常がある。

今日だってわーわー言いながら朝ごはんを食べたり、洗面所をとりあって歯みがきをしてきたかもしれない。

当たり前なのだけど、ある一面でしか接点がないと、いろんな面があることを思い出さない。そうしてその一面だけでひとを判断してしまいがちだ。

だれにでも「見える日常」と「見えない日常」があるんだよなぁ。

どちらが特別というわけでもなく、どちらもそのひとの、ごく日常。

そんなあたりまえのことを、横断歩道で立ち止まるひとびとを見ながらぼんやりと考えた。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。