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市川沙央と植松聖

 『「ハンチバック』(文春e−book)を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。数箇所を太字にしたのはnoteで加筆した部分です。

 「紙の本を憎んでいた」発言は、既に本作からひとり歩きしてしまった格好になっているが、正直なところ市川沙央に先を越された、借りを作ってしまったという気持ちがある。
 書き手側の方はまるではじめて聞いたように、あたかも無知で傲慢な書き手である読書家の心にグサリと刺さった、耳が痛い、胸がしくしくと痛んだ、鋭く刺された、などと訴えているようだが、実は読み手側の方には既視感があるのだ。「紙の匂いが」だの「ページをめぐる感触が」だのの言い回しは、電子書籍に頼らざるを得ない読者に散々圧力をかけてきたのだ。この発言には、健常者であっても思わず喝采した読み手側は少なくないだろう。読み手側の多くは、いつも大型書店にアクセスできるわけでもないし、ましてや巨大な書斎があるわけでもなく置く場所もない。読み手が電子書籍に手を伸ばすのは当然のことだ。
 あの言い回しに似たような表現は幾度も目にした。これは障害者だけが感じることではない。紙の本至上論者は大体が、巨大な書斎の持ち主や大型書店へのアクセスが可能な者であることは相場が決まっている。持てる者が持たざる者に電子書籍に手を伸ばすなという暴論は読者に死ねということなのだ。

 これまでも紙の本至上主義者に鉄槌を下そうという目論みはなくもなかったのだが、紙の世界では反響も薄く、結局は「紙の匂いが」に揉み消されたというのが現状である。書き手側は「そんなつもりはない」と言うのだろうが、淘汰されがちな読み手からすれば、いわば市川は救世主でもあるのだ。「無知な傲慢さを憎んでいた」と看破されショックを受けたのは、書き手側の方が多いのではないか?市川は結果的には健常者の一部の読み手も巻き込んで読者文化のマチズモを暴いた格好になっているし、「紙の本を憎んでいた」ことも本心に間違いないだろうが、より多くの読者を獲得することも考えて実施したのだろう。
 その反面、市川は、主人公を通して重度障害者でありながら経済的弱者を搾取する強者だということも読者に晒している。書籍の電子化が進むことを阻止したい紙の本至上主義者は、無知で傲慢ではあるものの、個人書店や電子書籍に馴染めない読者を守りたいだろうことも分かっていて晒したのだと思う。立場は違えども、その持てる者が、大型書店ではない個人書店員の代弁者になっていることも事実なのだ。筆者のような読者が望むように電子書籍化が進めば当然個人書店は淘汰される。弱者と強者が容易に反転することは市川にはとっくに分かっていたことなのだが。

 ショッピングモールvs商店街も同じことだ。一見悪役に思われがちなショッピングモールには、バリアフリーがあるが、それに比べると商店街にはバリアフリーが乏しい。身体障害者は当然のことながら前者を選ぶ。だが本来はそこに目を配るべきの社会学者がショッピングモールを悪だと断じるのである。エッセンシャルワーカーの待遇が悪いこと、電子書籍の進出による個人書店の存続の危機、商店街にバリアフリーを置く余裕がないことによる矛先の全てが結果的には障害者に向けられ、マイナリティ同士が争うようになってしまうのである。さらに言うと男女雇用均等法になったことで買い手が有利になった、新自由主義になったと憂い、はっきりは言わないものの「女性の社会進出が悪い」とまで言いたそうな論者も見受けられるのである。

 紙の読書こそが至上だと謳う出版界は健常者優位主義〈マチズモ〉だと暴露するのははそれだけではない。主人公が持つ「社会的なつながりと言える場」は数少ないものの一つ「コタツ記事」なのだが、職業を説明する場面でも分かるように、それがいかに単価が少なく、取材をせずに成立できてしまう、逆説的に言えば取材が出来る立場のジャーナリストから一方的に貶められていることも意味しているのだ。

 〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉
 この台詞は、文字通り障害当事者である主人公が胎児殺しを決行しようという覚悟の意思表明である。しかも男性ヘルパーの手を借りることで妊娠と中絶を実現させる壮絶な命のやり取りだ。
 これが、あの「紙の本」発言にも”露払い”をさせるぐらいの壮絶な、市川が世に問うたもう一つの申し立てである。
 本作は一見自伝的小説のように見えるが、基本はフィクションである。
 主人公が両親の遺産を継いでいるという背景は創作だが、高学歴で物書きという肩書きは紛れもない事実である。主人公がいつも上から目線だということもあえて主張させ、わざと読者に反感を持たせようとするところが市川らしい。野望があり、性欲もある。健常者に勝って優位に立ちたい、確信犯であることも隠さない。欲求の全てを晒すことで、健常者が障害当事者を聖なるものとし、競争意識も持たせたくないと言う本音も暴いている。誰しも承認欲求も欲望もあるし、心に闇も抱えている。それを抑えようとする健常者とのせめぎ合いはスリリングだ。障害当時者にもあるのだ。歪みも鬱屈も摩擦もアナーキーさもルサンチマンも求めて生きてきたのだ。と。

 そしてそれらの対立を含めて、障害当事者で経済的強者である女性(主人公)と「弱者男性」を自称する経済的弱者の”共犯”によって、ある結果をもたらすことになるのだが、弱者と称する男性ヘルパーを見ているとどうしても植松聖を思い起こさせる。

 市川と植松の共通点にはかなり無理があるのだが、便宜上仕方がないので、双方殺す側でもあり、殺される側でもあるという設定になっている。
 植松は、自身の「新日本秩序」の7項目の秩序5「婚約者以外と性行為をする場合に避妊することを義務付けます」を設けている。旧優生保護法に親和性を持ち合わせながら、その反面、改正された母体保護法には敵意を示し、実は自分の遺伝子だけは残したいという生物の本能、もしくは生まれる自分を殺したくないという矛盾がうっすらと透けて見えるのだ。

 植松は、障害者を殺した側なのに、障害者を産みたくない女性団体を責めたいと言う矛盾を抱えている。本来は殺される側(実は弱者ということもあるが)ではないのに、なぜか無自覚にこれから生まれる自分があれほど否定していた障害者になっていて中絶される側になっているのである。
 市川(主人公)は、そのことを見通している。植松は、「出生前診断で健常者が障害者を殺すなら、自分が同じことをしてもいいだろう」と嘯く。障害者施設で大量殺人事件を起こしておきながら、実は我々にも突きつけている。出生前診断における「母性保護法」により定められた人工妊娠中絶の中絶率の高さという現実を盾にとって。だが市川は作品中でその矛盾を看破する。健常者が障害者を殺すのは同じであって全くバランスが取れていない。殺す側と出生前に殺される側の両方から論じているつもりになって、急に自分の立場を変えて胎内に入り殺される側になっているようだが、胎児殺しを決行しようとしている自分とは違う。
 「出産にも耐えられないだろう」
 「もちろん育児も無理である」
 「でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。だから妊娠と中絶はしてみたい」と。
 出生前診断で、健常者が障害者である自分を殺すのなら、今度は自分が妊娠して中絶も実施することで健常者かもしれない胎児を殺せばバランスが取れるからだ。

 主人公(市川)の立場は、殺される側でありながら産む側でもあるので、引き裂かれることは間違いない。が、出産だけではなく、育児からも最初から免除されていると思っている産まない側は、「母よ殺すな」(日本の障害者団体「全国青い芝の会」)とは比較的言いやすく、決して「父よ殺すな」にはならないのだ。

 「お前らだって命の線引きをしているではないか」と突きつける植松に向かって、誰も答えられなかったことを、市川だけが答えているのだ。

 「その通りだ。こっちも命をかけて線引きをしている。そうだ。罵ってこい。かかってこい」というような主旨で答えている。
 その結果、作品の中では喧嘩を売った主人公の思い通りになっている。

 気になるのは、男性ヘルパーに思い起こさせるのは植松だけではないことだ。
職業としては確かに植松を連想させるが、男性ヘルパーの背景に関しては山上徹也を思い出させるのだ。市川の意図は不明なのだが。


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