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人の正に揺るがされる

このnoteを開いていただきありがとうございます。

11月の初週にボストンキャリアフォーラムに行ってきました。
木曜日の午後に到着してその日は宿泊先のチェックインと会場の下見、金曜日からキャリアフォーラムに向かうという行程でした。

木曜日の下見の時点でかなり日本人が街中にいたのですが、ある一瞬でここまでの留学期間で積み上げてきたものが壊れた気がしました。

日本にいた頃からかなり人には話しかけるようにしているのですが、アメリカに来てからは特段人に対して積極的に話すようにしていました。コミュニケーションの練習にもなるし、パッと話題を頭に浮かばせる訓練にもなるし、何よりそこがきっかけで友達になれるかもしれないと思っているからです。

それはボストンに来てからも一緒でした。

久しぶりに同じ学校以外の日本人と話す機会でもあったので、街中で道に迷っている人や、スーツケースを持ちながら階段を登ろうとしていた日本人に積極的に話すようにしていました。言うなればアメリカ風のコミュニケーションをとっていたわけです。

ただスーツケースを持っている人はボスキャリのために日本から来た人なのでマインドが完全に日本人な訳です。なので僕が話しかけたことに対して

①知らない人がいきなり話しかけてきた
②ナンパ目的かもしれない

という2つの側面からものすごく警戒されました。

海外なら知らない人が話しかけてくることなんて当たり前ですし、ましてや同じ国同士の人であればますます話しかけられる可能性は高くなるわけです。

ただそれが当たり前ではない日本から来た人に声をかけて、警戒されまくった態度をみた時に

「あ、そうだ、日本でこれをやっちゃいけないんだ」

ということを再認識しました。

そしてそれを思ってしまってから、街中で困っている日本人を見かけても話せなくなってしまいましたし、話しかければ良かった、と後から悔やむ日本人の悪い部分が戻ってしまいました。

ここまで2ヶ月近くアメリカで過ごしてきて、コミュニケーションの仕方、積極性が好転したものだと思っていたのですが、それが一瞬で元に戻ってしまいました。

そしてその場その場に合わせている自分が分からなくなりました。

何が正しくて、何が悪なのか。

人の正に揺らがされている自分をすごく感じました。

人の正が自分の正になってしまうからこそ、ナンパを警戒されるくらいなら黙っておいた方が良い、という日本人的控えめな精神が正に「戻る」。でもアメリカの友達と話している時はtalkativeであることが正になるから自分もtalkativeになる。

キレイに言えば「適応能力がある」のかもしれませんが、自分がそれまでやってきたことを変更するタイミングで、自分の中に違和感が残るわけです。

これまでやってきたものと違うぞ、これまでの自分と違うぞ、と感じるタイミングがあるんです。

だから今日控えめになってしまったことにも違和感がありましたし、それを拒んでいるtalkativeな自分の側面がまだ残っています。

答えは出ないと思いますがすごくグチャグチャした感情になった移動日でした。

久しぶりの思考整理noteでございました。


ここまで読んでいただきありがとうございました・

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