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ブラインド・スポッティング

ここには少なくとも二つの世界が互いに反発し合わない形で並存することが可能であるが、そうやって異なる二つ以上の世界が存在しおおせることはめったにないといっていい。「調和」という言葉を使うこと自体はたやすいが、それが真の意味で「調和」しているのかどうかは「調和」から離れた位置でしか確かめることはできないということだけがはっきりしていて、ある意味で「調和」という言葉こそが最大の不和であり暴力でもありうることを覚えておくのは決して無駄なことではない。

こんなところで哲学か、と落胆するのは早計であり、かといってこれは詩であり宣言でもあるという意味ではこれは哲学であるのだとも言える。あるいは直感であるのだとも言える。

意図を示されてはじめて浮かび上がるようなメッセージには何も意味などないのであって、そうではなくて、発信と受信の間にある糸、それこそがメッセージの意味を立ち上げるのであり紡ぎ出すのであるから、受信の側で立ち上がったメッセージがもとのメッセージと同一であることはまったく期待できないし、期待できないことをあらかじめ織り込むことを忘れればそれは強引に糸を引っ張ることとなり、意図が糸を断ち切ってしまって破断となれば、切れた脈絡がだらりと尾を引くことになる。

それでもなおわれわれは糸を手繰るために意図を凝らして生きるのだが、われわれという世界のひしめき合いもまた糸の絡み合いに終着するのであって、顔をあげればどこまでも、糸、糸。


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