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恥から生まれる付加価値

30代から子育てしながら自宅で仕事をして30年あまり、いろいろな幸せを享受しながら自由に生きてこられたのは、格別な神様の計らいであったのかと思う今日この頃。ナイフみたいにとんがって周りを傷つけていた若い頃に比べて自分は変わったのかというとそうでもない。

たとえばOLをしながら占い師をしていたとき、1980年代の終わり、バブル直前の世の中のせいもあるが、手取り10万ぐらいの給料の私に、一回でその半分ぐらいが支払われる鑑定イベントの仕事などは分不相応で恥ずかしく、技量が追いつくことを願いながら勉強した。

占いライターを始めた頃も自分はこんなに文章が上手なのになんで人に直されなくちゃならんのだという気持ちがわいてイライラした。今思うと恐ろしいまでの傲慢さに恥ずかしくて顔も上げられない。それなのにアウトソーシングでの文字単価が0.1円以下になっても、自分の会社の単価は30年間下げずにやってきた。そのせいで今や取引先は最盛期の半分にまでなった。当然、世の中には単価が安くて上手で仕上げるのも早い人達がたくさんいるのだ。

とはいえ仕事を切られることを恐れて自虐的になっているわけではない。きちんと筋を通せば、いいものを仕上げれば、正当な対価が支払われる世界に生きてきたので、それに見合う仕事を念頭に置いてある限りの仕事を続けるしかない。

実力にそぐわないといえばカウンセリングの講座から区の相談員になるという道がある。よく聞くとそれはボランティア。一日1000円程度の仕事だという。稼働6時間のうち昼食に一時間もらえるのだとしたら時給200円。いまさら儲けようとか、それを仕事にしようとかは思わないが、相談ケースの積み重ねがなければ本当の意味で役に立たない私のようなものの価値はそこから始まるのかもしれない。

実際に相談員のなり手は減っているときく。お金じゃないといいながら、勉強した成果を実践できないまま別の仕事につかざるを得ない人もいるだろう。でもカウンセラーは「日当千円のボランティア」という程度の覚悟ではできない、これからの仕事だ。実力以上にみせる技術も必要かもしれないけれど、恥ずかしさを付加価値に変えていくような老獪さを身に着けたものとして、後進のため道を開きたい。



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