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恋で生計は立てられない 第四章「他人の領域」1


 優《ゆう》は天使みたいな子だね、と母はよく言っていた。
 お前は愚図らないし、あれ買ってってねだることもないし、わがままは言わないし、本当にできた子で、ママは嬉しい。
 母が笑うと優も嬉しかった。機嫌がいいと頭も撫でてくれた。夜、母が仕事でいない時、一人で寝ている時は母の手の感触を思い出しながら目を閉じた。
 目を閉じるのは、優のよくやっていた癖だ。
 その場の空気が悪くなった瞬間、悲しい事件を目にした合間、優はよく目を閉じていた。視界を遮断して瞼の裏に隠してしまえば、心に迫ってくるショックをいくらか和らげる効果があると知ったからだ。
 目を開ければ、世界はいつも騒がしい。

 万城目優《まんじょうめ ゆう》は人に言えない秘密がある。それは、時々思考回路が完全に停止してしまうことだ。
 誰かに怒られた時、いわれのない悪意をぶつけられた時、優は怒りよりも先に、恐怖と悲しみを感じて心をスッと閉ざしてしまう。その後は、反撃の一言も返さず、ただ相手が落ち着くまでニコニコ、ヘラヘラ笑っている。優の中に激しい気持ちは一切ない。あるのはただ、茫漠とした虚しさと、人生は思い通りにいかないという悟りのような心境だけだった。
 優は、一人で生きる子どもだ。
 誰と一緒にいても、何を見ていても、優に安らぎはない。優はそのように生まれ、育ってきた子どもだったから。
 何かあったら、目を閉じること。世界は暗闇に包まれ、一人きりの優しい無の時間が広がる。
 その日も優は一人で目を閉じていた。
 両親が何度目かの喧嘩をしていた。お金がない、なぜこんなに貧乏なんだ、世界は不平等なんだと、互いにぶつけ合うような口論だった。壁一枚挟んだ寝室で、今日も父と母が一緒に寝てくれることはないなと思っていた。親子三人川の字で寝ていた日が、もういつだったか思い出せない。
 優は小学校に進学していた。ボロボロの服、履き古した靴で毎日登校する優を、周りの子は笑ったけれど、優はそれがつらかったわけではなく、気丈に学校へ通っていた。馬鹿にされるのは慣れていたし、悔しくて泣くのも何かが違う。それに親からもらったものを笑うような子とは、仲良くしなくてもいいのだと知っていたのだ。
 だから、優にとって学校生活はつらいものではなく、子どもの義務として勉強をするための、ただの教育機関だった。
 寝室に母が入ってきた。父は今頃ソファーで横になっているのだろう。
 母は隣のベッドにもぐり、優の頭をそっと撫でた。
 優は寝たふりをした。母の泣きはらしたであろう目を見るのがつらかったからだ。
「お前は天使だね」
 母の声はかすれていた。
「愚図らないし、ママの味方をしてくれるし、本当に嬉しい。ママ、お前のこと大好きよ」
 母の手はしばらく優の頭をさわり、頬にすべり、労わるようにそっと触れてから離れた。
 その後は、母は寝返り一つ打たず眠り始めた。

 優に友だちができたのは、一学期が終わる七月の初めのことだった。
 うだるように暑い、湿気に満ちた夏の入り。
 飲み物代を浮かせたくて、水分補給は水道の蛇口から出る水のみでしのいでいた日々。さすがにこたえて、帰り道、優はふらついた。その場にしゃがみ込んで、身体が持ち直すのをひたすら待つ。顔からは汗が吹き出て、目に入ってしみた。
「どうしたの?」
 自分よりいくらか高い声が、後ろからした。振り向くと、半ズボンを履いた見慣れない顔が、こちらを見下ろしていた。
「具合悪いの? だいじょうぶ?」
 その子はまだ舌足らずな口調で、優を案じていた。優が何も言えずにいると、男の子はランドセルを地面に置き、中から細い水筒を取り出した。
「まだ中身入ってるの。全部飲んでいいよ」
 優は戸惑った。この子は誰だろう。
 男の子は武田楓《たけだ かえで》と名乗り、水筒のふたを開けて中身を注ぎ、優に差し出した。
 恐る恐る、口に含んでみる。味は麦茶だった。家庭でよく作られる味だったに違いないが、優にとってはこの先一生忘れられないような美味に感じられた。
「おいしい」
 思わず、顔をほころばせる。
 すると相手もふわりと笑った。
「お母さんの麦茶は世界一なんだよ」
 その表情が誇りに満ちたいい笑顔で、優は何となく好感を抱いた。
 二人はしばらく笑い合った。

 月が替わる頃には、二人は互いを名前で呼び合うようになった。楓は違うクラスの子で、「うちの教室においでよ」と優を誘ってくれた。
 優が顔をのぞかせると、楓はいつも快く出迎えてくれた。クラスの雰囲気もよく、ここのみんなは仲がいいんだなあと優はこっそりうらやましく思った。
 しばらく、自分の教室には戻らずに楓のところで休み時間を過ごした。次第に友だちもここでできるようになり、優は、きっと自分はクラス編成の時に外れくじを引いたのだと納得するようになった。
 季節が変わり、二学期の始まりに、楓は優を呼び出した。
 楓の周りには友だちの他に、よく話す間柄の女子たちも固まっていて、彼らのそばの机にはたくさんの文房具や生活品などが並べられていた。
 楓たちは、優を見ると慈愛のこもったまなざしを向ける。
「私たちでね、優くんを助ける会を作ったの」
 一人の女子が誇らしげに胸を張った。
「武田くんが提案したんだよ」
「みんなでいらなくなったものを集めてたんだ。全部あげるよ」
 机の上に散乱された、優には手が出なかった人気のキャラクターのノート。誰かのお下がりの給食袋。
「お母さんが言ってた。優くんみたいなかわいそうな人を、助けてあげなさいって」
 楓は、微笑んでいた。使命感に燃えているようにも、よい行いをした満足感にも似た表情だと思った。
「ありがとう」
 優はそれだけ伝え、みんなからの贈り物を頂戴した。その日はみんなで家に帰った。一人、二人と別れ、最後に楓と手を振って別れた後、
「もう二度と同情しなくていいよ」
 優はつぶやき、自宅アパートのゴミ収集所に彼らの寄付を丸ごと捨てた。

   〇

2へ続く。



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