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自分に噓をつく人は、ほかの誰よりも落胆しやすい


精神的に参っていたが、少しずつ復調しつつある。自分の気持ちに折り合いがつけられそうになってきた。腹を立てていたわけではない。むしろ落胆していた。誰に落胆していたわけでもない。自分に落胆していたわけでもない。ただ、自分と周囲の温度差に落胆していた。


自分はこの八月から九月にかけて高い温度感をキープしていて、情熱をもって、さまざまなことに取り組んでおり、これから先もそのように取り組み続けるだろうと思っていた。

生活には張りがあり、夜もうまく眠れなかった。やりたいことがたくさんあった。夢のなかでも構想を練って、イメージトレーニングをし、起きがけにそれを書き起こした。眠らなくてもほとんど平気だった。


しかし今はどうだろう。夜がやって来るたびにくたくたになっている、自分がいる。落胆している。自分と周囲の温度差に。そもそも自分と周囲の温度を同じくらいと思いこんでいた僕が傲岸だった。創作のことを考えようとしても、自分の傲岸とそれに対する落胆とが、頭にこびりつく。しかし数日が経って、自分の傲岸とそれに対する落胆とのあいだに距離感が生じ始めて客観的に捉えられるようになってきた。

自分は、誰に落胆しているわけでもない。自分に落胆しているわけでもない。では、何のために落胆しているのか。ずばり落胆するというのはある種の快感を伴う行為なのだ。自分は落胆しては、気持ち良くなっていたのではないか。一種の外面そとづら、見てくれのために落胆していたのではないか。自分を傷つけた存在なんて誰もいないのに、自分自身で傷を勝手にこしらえて、体裁をつけるための噓を重ねる。自分に噓をつく人は、ほかの誰よりも落胆しやすい。

「自分に噓をつき、自分の噓に耳を傾ける人間というのは、自分のなかにもまわりの人間のなかにも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては、自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。だれも敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちをまぎらわそうと、情欲や下品な快楽に耽って、ついには犬畜生にもひとしい悪徳に身を落とすことになるのですが、それというのもすべて、人々や自分に対する絶え間ない噓から生まれることなのです」(ドストエフスキー著、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』)

ならば僕は、存在がフィクションでいい。フョードルのような道化を演じ続けよう。

「あなたがいまご覧になっているのは、道化、ほんものの道化でございます! 情けないことに、これは昔からの習慣でして! ときどき、場違いな噓をつきますのも、わざとやることでして、つまり、人を笑わせたい、気に入られたいという気持ちからなんですよ。だって人はやはり、気に入られなくては生きていけませんからね、そうでしょうが」(ドストエフスキー、同上)


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