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人には人の許容量

去年までは刺激の多い界隈にいた。今年は刺激の少ない界隈にいる。
最初は刺激が少なくてつまらなかったX(旧Twitter)のタイムラインも、今はとても楽しい。ほっこりする呟きがこんなにいいものだなんて。Brueskyも楽しくてしょうがない。

今年のお正月は衝撃的なニュースが多かった。年末から寝込んで精神的に底にいるわたしには耐えられない話題。Xに登録するミュートワードが増えていく。
とかく人の死というものに弱くて、人の悲しみに共感しすぎて、寝込んでしまう。個人的な喪失ショックから立ち直っていないのに、地震と事故にまつわる悲しみにまで触れると心が壊れる。自衛ができて偉かったよ、自分。

今は、散歩にも買い物にも好きな作家さんのイベントにも行けるほど回復した。時短で仕事もできるようになった。けれど、まだその話題に触れに行くのは避けている。渦中にいる人たちの悲しみについて触れるのは避けている。イスラエルの件だってわかってるけど避けている。わたしひとりで解決できない問題からは距離を取る。ひきずられて寝込まないように。

一昨年のクリスマス、面識のない活動者の訃報に触れて2日間寝込んだ。

その方と仲がよかった数名とは知り合いだった。公表されてからタイムラインがその話題で埋まった。みんなが思い出を振り返り、無念と寂しさと悲しみを投稿していた。
活動者は躁鬱病と闘っていた、いわゆる裏垢女子だった。露出度の高い写真を投稿し、写真や動画やグッズを売って生計を立ててらっしゃった。精力的に活動しているように見えていて、でも不安定になっているところも見えていて、訃報は突然のことだった。

わたしは時々その方のアカウントを見に行っていたが、いいねもフォローもしなかった。趣味で繋がったひとたちのいるアカウントではいいねもフォローもしずらかった。露出度の高い芸術的な写真、というよりは煽情的な写真の数々。会えるイベントもあったようだったけれど、それも行かなかった。だから、その方との接点は何もなかった。ただ一方的に知っていただけ。
こんなに薄い、一方的な繋がりで、2日。彼女を喪った周りの方々の悲しみを読んだだけで、2日。食欲をなくし、泣き、無気力に寝込んだ。

そして今年のお正月。悲しみに触れるには許容量があるな、と思って、意識的に情報から距離を取ることにした。見ないふりをしていることに罪悪感がないわけではないけれど、わたしの人生の2日間を使ってしまうのは違う気がしている。現実を変えられるわけじゃないのに、寝込んで生活を止めている場合じゃない。
死の話題からは、距離を取らねば。精神的に疲弊する話題からも、距離を取らねば。

ミュートワードが増えて、年末まで見ていた界隈や話題は一切タイムラインに流れてこなくなった。不倫も、パパ活も、夜職も、自傷も、整形も。その他諸々も一切見なくなった。なぜ毎日毎日そんな話題を見ていたんだろう。
今はきれいな花とか、おいしそうなご飯とか、床にのびている犬猫とかを眺めている。刺激は少なくなったけど、情緒は平和になった。自分の投稿からもお酒やおしゃれな料理の写真が減って、道端の花や買っちゃったかわいい雑貨の写真が増えた。ひとといる写真じゃなくて、自分が見たものの写真。ひとといる報告じゃなくて、自分が見たものの報告。

刺激の多い界隈で友達になったひとたちの中にも、まだ繋がっていたいひとたちがいる。そのひとたちと会えばすくそばにトラウマがあるし、夜の世界がある。それでも、病んだわたしに徹夜でつきあってくれたり、心配して声をかけてくれたり、話を聞いてくれたひとたち。友達でいたい。
近づきすぎず、遠ざかりすぎず。そのひとたち自身には近づいても、その界隈には近づかないように。今年は練習の年。

悲しみの摂取量には、許容量がある。刺激の量にも。

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