見出し画像

花束なんて

人から花束をもらったことはありますか。

私は20年とちょっと生きてきてほとんどもらったことがなかったのですが、今年に入って2回もいただいてしまいました。
最初は春、私の誕生日に。次はつい先日のクリスマスに。


* * *


どちらも決して派手な花ではなかったのですが、その少し遠慮した様子の花がやけに愛おしく、じんわり温かくなるような気がしました。いただいた花を気に入ったのは、人気のあるものや定番を好まないという少しひねくれたその人が好きだから、というのもあるのでしょうけど、私のために選んでくれたからというのが何よりでした。

プレゼントに花束って、ちょっと粋な感じがして学生にはこっぱずかしかったりしないでしょうか。物じゃないのでその後ずっと使い続けることもできなければ、食べ物のように私に取り込まれることもありません。
使う瞬間や食べる瞬間というのは、プレゼントとしてもらった時と同じかそれ以上に嬉しいものです。では花束は…?

私は、もらった瞬間が一番嬉しいと感じました。と同時に、その後ずーっと部屋に飾られた花が目に入る度に胸が満たされています。机にそっと生けられているだけで、部屋全体が1トーン明るくなったような気がします。生きているものがそこにあるというだけで、他のプレゼントにない温もりが持続的に常に私の肌の一部に触れ続けているような感覚です。

花は次第に朽ちていきます。変化するということが、ひょっとすると他のプレゼントには少ない特徴かもしれません。もらった瞬間の美しさは永遠には保てません。でも、その名残惜しさや切なさが、記憶の中の「もらった瞬間」の花束の姿と感情をより美しくさせるような気がしています。


* * *


私の母は、多分結構花が好きです。狭いベランダには所狭しと植木鉢が並べられて、都会の四角い建物の中で育った割には私は四季折々の花を見て過ごしました。

小さい頃、よく父が母の誕生日や母の日など何かにつけて花束を母にプレゼントしていました。
小さめのかわいらしいカスミソウという花が好きな母には、色とりどりの大きな花束は少し重たそうでした。それでも私の記憶に残る限りでは、それなりに嬉しそうにもらい、食卓に大きな花瓶を出して飾っていました。

あまり詳しくは書きたくありませんが、父と母の仲が冷めて来た頃、母は大きな花束を迷惑そうに受け取るようになりました。確かに手入れは母が一人でするので花粉がたくさん落ちる花は掃除が大変だったり、一つの花瓶に入りきらなかったりして大変だったのでしょうけど。もう少し小さくていいのにといった小言も増えました。

「花束なんて。」

おそらく母も、花束をもらって嬉しかった時期はあったでしょう。ずっと前からそんな大きいのじゃなくていいのにと思っていても、父との関係性の中でそんなことは特段気にならない時期もあったのでしょう。
その後しばらくして、父が花束を持って帰ってくることも食卓に花が飾られることもなくなりました。


* * *


私もいつか、花束なんてと言ってしまう日が来てしまうのかな、なんて考えて淋しくなります。離れて暮らすようになってから特に、母と自分が似ていると感じる部分が増えて来たからこそ、物の言い方がそっくりになことを自覚するようになったからこそ、不安になります。

だから、今の私のこの「花束をもらって嬉しい」という気持ちをちゃんと伝えて、さらに未来の私にも覚えていてもらいたい。
私、もらった瞬間めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。
照れ臭そうに花束を差し出す姿が愛おしかったんだよ。
机の端に飾って、ごはんの写真撮る度に入るようにしてたんだよ。
水を変える度にもらった日のことを思い出してたんだよ。
散っていく花弁を見て切なくなったんだよ。

どうかこの先の私が、花束なんて、なんて言いませんように。
幸せを幸せと感じ続けられますように。


ぽてと


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?