人は生活の中で意識的、あるいは無意識的に色んな「役」を演じている。家ではゴミ箱に投げ損じたゴミを見て見ぬふりをする「怠け者」が、職場では1mmの誤差も許されない精密機械を作る「職人」の役を演じている。妻と子供の前では「立派なお父さん」が、実家で親と話すときは自然と「子供」の役になる。 これらの事象に少なからず身に覚えがあるのではないだろうか。 じゃあ年末の大掃除で掛け布団をコインランドリーに持っていく時はどんな「役」を演じているだろう? 今回はそのとき好青年を演じ
桜は散るからに美しいと人は言うが私は別にいつ桜を見ても美しいと思っている。せっかく美しい桜が咲いているのにみすみす散るのを眺めているだけというのはなんだか惜しいような気がする。ということで今回は桜を塩漬けにして保存し、一年中堪能してやろうという話である。 まず主役の桜を手に入れるわけだが、そこらへんで咲いている桜の枝をへし折ってくるわけにはいかない。なぜなら世間の目があるからだ。福田は大変に憶病なので、万が一にも街中の桜をへし折ってるところを見られ通行人のジジイなどに怒
前書きとメイちゃんの話 少々物騒なタイトルだったかもしれない。 人の性格や気質は幼少期の体験や環境によって大きく左右されるといった話は昔からよく聞く。だから子供向けの英語教材ビジネスは潤い続けるわけだ。 しかしただ手元にあるからと言って勝手に得意になる訳では無いというのはさして英語を話せないこの私がその存在を持って証明している。 一昔前、「モテ期」という映画があったのを覚えているだろうか。とある男性がある起点を境に異性にもててモテてモテまくるという何とも羨まけしからん、
お盆が近づいてくると、我がバイト先「奴寿司」が多くの客で賑わうなんてことは、二年半務めてきた経験から簡単に予知することができる。 一時期は新型コロナウイルス感染拡大の影響で閑古鳥が鳴いていたが、最近はだんだんと客足も戻りつつある。一見喜ばしいことだが、少々問題も起きている。 アルバイトでの稼ぎが生活の頼りとなっている私としてはやはり繁盛を願うべきなのだろう。しかし、暇な時期が続いたせいで体が鈍り、この忙しいという状況がツラくて仕方ないのだ。 つらいと感じているのは私
歳をとると、子供の時分に周りの大人に迷惑をかけた事を思い出しては、その償いをしたくなる。 自分を育ててくれた大事な大人たちは、もういつまでも居てくれるわけじゃないから。
俺がガキの頃の時分、確か、9とか10ぐらいの時は、随分と昆虫採集に明け暮れたものだ。日がな1日昆虫図鑑を読み込んで、外に出ては見たことない虫を探して草木や地面を目を皿のようにして見回していた。夏休みになると、単身赴任していた父親が帰ってくる。なので父親と一緒に明け方の山に入って虫を取るのがその頃の1番の楽しみだった。その日は早朝の5時に父親に起こされて、青白く、涼しくて、そして世界が止まってるんじゃないかと思うほどの静寂の中、家の裏山に出発した。虫取りに行きたいと騒ぐのは俺だ
排気ガスの熱気と焼けるアスファルトの匂いが顔に当たる。どこか懐かしい記憶をくすぐられる。もうじき夏がくる。この匂いは好きだ。私はこの匂いの中で生まれ育ってきた。父親に手を引かれ、顔を見上げながら、大きい歩幅に合わせて一生懸命歩いていた自分を思い出す。 今私は、そんな空気に当たりながら大通りの端を自転車で走っている。ここ松山にも故郷を感じさせてくれる風景があることに嬉しさを感じながら。 愛媛の大学に進学し、この地に来たのは去年の春のこと。その頃は、少し見渡せば城が見えること
子供の時を思い出して欲しい。暇な時、ふと思いついた時、どんな事をしていただろうか。 私はよく晴れた日は特に、空中の透明なクリップを目で追いかけていた。 小学校の体育とかで、薄ら寒いグラウンドで先生が声を張って何やら説明している時はよく空を見上げていた。大抵そこには透明なクリップがあって、視界の隅などにあるのを真ん中で捉えようと視線を動かすと同じスピードで逃げてしまう。それをどうにかこうにか真ん中に持ってくるために視線を早く動かしたり、あるいはバレないようにゆっくりと慎重に