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誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない【映画】怪物

■怪物


■あらすじ

大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、
大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。

映画「怪物」公式サイトより引用/https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/about/


■「怪物」のみどころ

①視点の転換によって解かれる謎

ミナト視点、ミナトの母早織視点、ミナトの担任保利視点という3つの視点が軸になりその他にも小学校の校長やミナトの友人星川くん、星川くんの父などさまざまな視点が層のように折り重なり、ある一点を複雑化し覆い隠している。そのある一点が話が進むにつれ明らかになっていく様がすこぶる快感であり、心に強く残るメッセージとなっている。

②時系列の構成によって解かれる謎

冒頭から中盤までのなぜそんな行動をしたのか、なぜそういう事態になったのかが時系列をちりばめることでどんどん明らかになる。
こういった構成の映画や小説はいくらでもあるのだが、
この映画のすごいところは、冒頭から中盤までの登場人物の奇行が
ミスリードによって謎に見えないのだ。
時系列が補完されはじめてからやっと確かに!と唸ってしまう。

③映像と音楽の美しさ

この映画もある意味では絶望の中にいる人物を描いていると感じる。
しかし映像、特に登場人物を表す風景が美しい。
それは是枝監督の【誰も知らない-Nobody Knows-】にも共通する。
育児放棄されるという絶望の中でも、子供たちを表す風景は美しかった。
加えて、坂本龍一が手がける音楽も当たり前だが美しい。
こういったミステリーというカテゴリーではどうしても恐ろしげな音楽が
使われがちだが、優しく美しい音楽が使われている。
観賞前は、タイトルやあらすじなどでいわゆるミステリーを想像するのだが、観賞後には坂本龍一の優しい音楽がこの映画の本質を語っていたことに気づく。

■「怪物、だーれだ」

・「怪物」とはいったい誰なのか?

 序盤はミナトが担任からの体罰を受けていると見受けられる描写からはじまる。ミナトの母早織は学校へ何度も抗議へ出向く。
その際の学校の対応が凄まじくお粗末なのだ。
事なかれ主義、隠蔽主義を絵に描いたようなものの言い方ではぐらかされる。だんだんと怒りと呆れが増していく母の早織。
ミナトの様子と奇行はさらに増していく。担任の保利は頼りない上、責任感のかけらもない受け答えで早織の怒りに拍車をかける。
 この段階での「怪物」とはまさしく“教育”であり、“学校”であり“教師”なのだ。ミナトの怪我などをたいした調査もせずただ「誤解があった」という趣旨の謝罪で有耶無耶にしようとする。
「あなたは人間ですか?」と早織は校長に問い詰めるほど母親の視点からすれば「怪物」に他ならない。

そして中盤、視点が担任の保利へと変わる。ここからである。
序盤でのミナトの母早織視点では「怪物」に見えた保利がまったくの逆、
保利は怪物ではないのだ。むしろ正義感に溢れる男なのだ。
ある部分では偏った正義感ではあるものの、こと教師という仕事に関してはこの映画の中のどの教師よりも責任感があって信念を持っているのだ。
 おそらく保利のレールを狂わせたのは学校でも校長でもなく“星川くん”という存在ではないだろうか。
星川くんは一風変わった少年である。飄々とした性格で、気持ちの柔らかい少年。保利は星川くんに起こる数々の小さな事件についてミナトが関係していると思い込むのだ。
保利には保利なりの真実が見えているのに、学校側はそれに耳を貸さない。
体裁ばかりを取り繕い、校長からは「実際どうだったかはどうだっていい」と言われる始末。子供の問題を揉み消そうとする学校こそ、保利には「怪物」に見えたはずだ。

そしてミナト。
ミナトは早くに父親を亡くしている。母早織はシングルマザーとしてかなりしっかりと育てている。いいお母さんなのだ。小学校五年生という思春期一歩手前の難しい男の子をきちんと考え気持ちを汲んでいるのだ。
冒頭のシーンでミナトが学校へ行くため家を出るとき、
「白線はみ出したら地獄ね」と車に気をつけるようにという意味で声を掛ける。ミナトは「それは子供のときだろ」と答える。
早織は「子供じゃん」と小さくつぶやく。
この一連の流れは早織がいかにミナトを大切に思い寄り添う日常を送っているかが垣間見える。
 しかし当のミナトは何か釈然としない想いを抱えている。
ミナトもまた星川くんに魅入られた存在なのだ。
“豚の脳を移植した人間は豚か?”という問いや“生まれ変わり”に深く興味を示したりするのもこの星川くんの存在があってこそなのだ。
星川くんは同級生にいじめを受けているが、ミナトだけは友達でいた。
ミナトは同級生すべてが「怪物」に見えていたのだろう。
しかし自分もその「怪物」たちに逆らえずいじめに加担してしまうこともある。そういう自分も「怪物」なのかもしれないという恐怖もあったのだろう。

 保利とミナトに関わる星川くんは父親から「化け物、病気だ」と言われ
虐待を受けている。ミナトは星川くんの父親は間違っていると言い切っているのだ。それは星川くんは怪物でもなんでもない、怪物は同級生や星川くんの父親だと思っている。

 さて、ここまで長々と視点の転換について書いたがここからがこの映画の素晴らしい点である。視点の転換によって、「怪物」が変わってしまう。
正義の行方がわからなくなってしまう。
ミナト、星川くんも母早織も保利ですら「怪物」ではないのだ。

ここからはネタバレ要素があるので未視聴の方は視聴後にお読みください。




・ミステリーじゃなくジュブナイルドラマである!

この映画の本質はミステーではなく、ミナトと星川くんが主人公のジュブナイル的映画なのだ。ただ二人の少年の物語に過ぎないのだ。
ミナトは星川くんに対しての気持ちをどう解釈してよいかわからず釈然としていないのだ。対して星川くんはその気持ちにはっきりと言葉を持っているのではないか。その言葉は「愛」であると思う。

 要するにこの映画の本質は少年二人がジェンダー的な問題を抱え、
それをまったく理解していなかった大人が勝手に暴走してミステリーになってしまっているのだ。
担任である保利も、母親の早織でさえもこのことには気が付かなかった。
しかし保利は終盤で二人の関係が恋愛としての「愛」かどうかに気がついたかはわからないが、当初思っていたようなミナトと星川くんの関係性ではなかったことには気がついた。雨の中、「先生が間違っていた、君は何もおかしくない」と叫んでいる。

二人の少年がの深すぎる友情と性別を超えた愛の物語なのだ。

それをコーティングするように、いじめの問題や体罰、学校の隠蔽体質、虐待といった大きな社会問題が横たわっているのだ。
そういった問題がまったく関係ないとは言わない。
しかし本質はそこではない。
この物語の本質は“二人の少年の愛の物語”であると同時に、その二人の周りにいる本当の「怪物」の物語であると思う。

・第三者の悪意

 本当の「怪物」、それはまったく関係のない“第三者”なのだ。
この映画における第三者を数名挙げてみる。

・ミナトの母早織友人
 冒頭、早織が働くクリーニング店に服を持ってきた際にガールズバーのビルでおきた火事について噂話をする。そのガールズバーに担任の保利がいたという情報を早織に教える。このことで早織には担任の保利に対する不信感が芽生えたと言っても過言ではない。

・小学校の校長をはじめとする教師たち
 幼い孫を事故で亡くし、休暇をとっていたが職務に復帰した。
その事故は夫が運転する車で孫を轢いたというものだったが、
真実は校長自ら運転していた。
その事実を保利は同僚の女性教諭から噂話として聞かされる。
さらに早織が抗議に来る前、校長室で打ち合わせをしている時に亡くなった孫の写真を早織が座る位置からよく見えるように設置する。
このことも含めて、他の教師に対する不信感は強まった。

・ミナトと星川くんのクラスメイト
 もちろん星川くんに対してのいじめ加害者たちはいわずもがなではあるが
それ以上に私が気味が悪いと感じたのはいじめ加害者以外のその他大勢の子供たちである。
 まずクラスの女子、特にミナトの隣の席の女子である。
この女子はおそらくミナトと星川くんは実は仲良しなことを知っていたはずだ。絵を描いている時に雑巾を取られ揶揄われた際、回ってきた雑巾をなぜかミナトに投げつけている。ただ席が前だったからとも考えられるが、
その態度は「なんで助けてあげないの、あんたが助けなさいよ」と言わんばかりである。
それに加えていじめ加害者たちがミナトまでからかい始めたものだからミナトはいたたまれなくなり星川くんに掴みかかることになる。

 こういった本質である“ミナトと星川くん”の物語を邪魔する第三者こそが本当の「怪物」なのではないか。
ミナトと星川くんにとってはまったく別の問題を大きくして二人の仲を裂こうとしているようにしか見えていないのではないか。

 母里織にとって校長をはじめ保利や他の教師は怪物であるし、
保利にとっては序盤はミナトが怪物に見えただろうし、
学校側にとっては学校のイメージを悪くなる要素を持ち込む早織が怪物に見えただろう。しかしやはりこの物語は二人の少年のジュブナイルドラマなのだ。大人が勝手に騒いだだけである。もっと深く理解して適切な教育ができていればいじめも虐待もなかったはずだ。

さらに、保利のように責任感と正義感を持っている者を邪魔しようとする人間は世の中にいくらでも存在する。
それもまた各々の正義の名の下にかもしれない。
世の中は正義と悪が視点によって変わってしまう。

とはいえ、現実問題今までにあげた社会問題がそんなに簡単に片付くはずがないことを知っている。現在も一生懸命働いている教育関連や父親母親のすべてが子供のことを何も理解していないと言っているわけではない。
ものすごく慎重に扱っている方々もいることも事実だ。
それを分かった上で、私はこう思うのだ。

子供が抱える想いは、やもすれば大人が頭や書類で考える以外の
まったく別次元の、大人になった今では気がつきはしない、
なんの不自由もなく、普通に暮らすことができた大人には見えないところに根本的な原因があるのかもしれない。


■誰かにしか手に入らない幸せってものは幸せって言わない。

奇しくも、今回一番印象に残った言葉は私が劇中で一番「怪物」だと思った
校長の言葉であった。

“誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰にでも手に入るものを幸せっていうの”

この言葉は、素晴らしい言葉である。
ミナトが「好きな子がいるけど隠してる。幸せになれないってバレるから」と言ったことに対しての言葉。
もしかしたらミナトと星川くんの関係に気づいていたからこそなのかもしれない。しかしこの校長はこの純粋な二人に何かをしてやれるほど自分は立派ではないと思っていたのかもしれない。
それは孫の事故に起因するのだろう。学校のため夫が罪を被り収監されている。嘘をついたことを教育者として恥じているのかもしれない。
だからこそこの言葉をミナトに投げかけたのかもしれない。

ミナトも星川くんも幸せになれる、二人もちゃんと幸せになれるということをきちんと説いてくれたように思う。

 校長は終盤で収監されている夫に面会に行った。
その時話をしながら折り紙を折る。
できあがった折り紙は船の形をしていた。
私は折り紙で船と言えば祖母がよく作ってくれた“だましぶね”を思い出す。
帆をつかんでいたはずなのに、目をつぶると船体をつかんでしまっているという子供騙しである。
正義とはある意味この“だましぶね”のようなものかもしれない。
帆だと思っていても、誰かにとっては船体、船体だと思っていたら実は帆だったというように。視点が変われば正義も変わる。

しかし校長がおった船は“だましぶね”ではないように見える。
それは校長がすでに正義を見失ったこと、あるいは学校を守るという
一つの形に囚われてしまったように感じられた。

最後に、印象的だったのは音の使い方であった。
随所に聞こえてくるサイレンのような音と星川くんが持っている紐がついていてクルクル回すおもちゃの音。

随所に聞こえてくるサイレンのような音は、終盤で発覚するのだが
トロンボーンの音である。上記の言葉を校長がミナトに投げかけた時
いっしょに吹くのだ。その音が数回流れるが、終盤でやっと謎が解ける。
星川くんが持っている紐がついていてクルクル回すおもちゃの音は“ヒュンヒュン”と鳴って軽い感じのする音だ。

勝手な解釈なのだが、私はこれを「怪物」の鳴き声のようだと思った。
保利が校舎の上に登った時の風景はまるで大きな怪物がどこかでブオーンと吠えているように思えた。

星川くんのおもちゃは同じものをミナトも作ってもらって一緒に回しながら走るシーンではまるで「怪物」の子供が二匹ヒュンヒュンと戯れているようにも見えた。




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