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非対称性を超えるので価値をつけてくれ

田中です。コンテンツマーケティングとか、そもそも広告とかマーケティングとかに携わったりして幾星霜。年をおうごとに強くなるのが、広告主とユーザ、広告主と代理店などの関係における非対称性にまつわる居住まいの悪さだ。

君は搾取していないか

広告主側であったことも長くあった。その場合広告代理店の人たちというのは、それはもう口八丁手八丁の手練れが跳梁跋扈する悪魔的世界だとばかり身構えていた。しかし、実際広告主側であるということは、なんらかの商品やサービスを生活者・消費者・ユーザー、そのような呼び名をしている人たちに向けて、いわんやその悪魔的な立場に自分もまたなってしまう状態にあるわけだ。

広告主側としては、実際には広告的「効果」とやらが見込めないゴミを代理店から売りつけられるのをひどく嫌う。そんなバカみたいなことがあるのかというわれると、少なくとも当時はあった。まだiモードのころである。そうしてそのようなものをつかまされては、ひどく搾取をされている気持になっていた。搾取、というのはつまり「代理店側の人間はその結果を見えていてなお売りつけてきた」という確信めいたものに由来する。

では広告主側として、自分らはユーザらが望むべくしているサービス、いや、広告の先にある「結果」を提供していただろうか。

君はうそをついていないか

「これはほら、嘘ではないから、うそでは。」こういったやり取りや自分への言い聞かせをしたことがない広告主は果たして世の中にいるのだろうか。マーケターはいるのだろうか。一等前後賞あわせて7億円という2015年の年末ジャンボ宝くじの当選確率は0.000005%だそうです。なんで2015年のデータかというとGoogleがまずその結果を返してきたからです。文句はGoogleに送信してほしい。話を戻すと、つまりそのような低確率な現象をあたかも当選しうるものだと伝える表現、煽りを含んだ広告というのを制作しているおそらく7億円の当選経験のないその人たち、クリエイターども、マーケターどもは、どれだけの確証をもって「うそではない」と言い張っているのだろう。そして、何をもって良しとしているのだ。

君は大げさではないか

「ちょっと大げさなくらいさ」という見方や「好きの反対は無関心だから、嫌われるっていうアテンションも十分な広告効果、してやったりだ」という趣旨のことも、わりと聞かれる言質ではないだろうか。田中がそれを言ったことがないなどとは言わない。しかし、やはりこれは唾棄すべき考えだとしたい。マスコミュニケーションか全くコントロールの利かないムーブメントやブームといったことによって世の中にアクセスしていた時代ではない。せっかくあらゆるチャネルで双方向に(!インタラクティブがもてはやされたころのゲーム機にピピンアットマークがあったが、昨今のレトロゲーム機復刊の流れで出てこないものだろうか)コミュニケーション、やりとり、感情の交歓が不器用ながらもできる時代になったのだ。IoTのTはモノやコトとされているが、実際手前に居る人間たちのThinkを取り扱える時代になっているはずだ。つまり、チャネルや層やペルソナとしてではなく、よりパーソナルな存在とのコミュニケーションを成立させ、エンゲージメントを拡大していくことが大事である、ならば、こそ、アテンションに嫌われてもよいなどとなるわけがない。

君は紛らわしくないか

本音と建て前、相手のレベルに合わせて、TPO、時と場合、確かにどれも一理も二里もある。しかしやはり迂遠で胡乱なことが多すぎる。できないものはできないし、意味がないものはどれだけ考えても意味がない。それでも相手が望むなら、相手がお金をくれるなら意味はビジネス上は生まれている。それはとても大事だが、一方意味のあるなしを金銭の有無や過多ではかろうとするのはどだい無理である。

しかるべき報酬を

実際はやたらめったらに失敗をしている。そういった事実から目をそらしてそれっぽさだけで物事を回しすぎている。もっと普通に、餅は餅屋とまかせる気持ちをもつ相手に、正しく価値を提供していく人生を送りたい。


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