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高尾山ノスタルジア No.9:鎮守の森高尾山

高尾登山電鉄株式会社「高尾登山電鉄復活30年史」に、終戦直後の高尾山がどのような様子だったのかが描写されています。少し長いのですが、長く記憶に留めておきたいことがたくさん書いてあるので、以下に引きます(*1)。

紅葉の高尾山

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 戦後焼失した家屋の復興には、全国の山林から木材が切り出されているが、高尾山もその例外ではなかった。
 地元の多くの人達は、戦時体制下の勤めから解放されたが、職もないまま山林に働く労働者として都会の混乱した生活とは裏腹に活力溢れるそして又、極めて長閑な生活を送っていた。
 こうして、これらの人達によって何百年もの間保護され続けてきた高尾の山林が切り出されていったのである。
 現在の6号路には、小宮旅館(筆者注:現在の6号路起点、妙音橋のほとりにかつてあった旅館。90年代まで存在していたとされる(*5))の前から見晴台下まで沢沿いにソリ道が作られ、もみや杉檜の大木は建築材として、雑木は家庭用燃料として薪に作られ、炭に焼かれて搬出され、都会に運ばれていった。
(…)こうした炭焼用に使われる雑木は現在のリフト山麓駅の近くから、また山上駅に至る南斜面から切り出されケーブルカーの線路跡に作られた『ソリ道』をソリによって清滝駅附近の炭窯まで運搬されていったのである。
(…)こうして年毎に切り出す場所は移動し、現在の2号路から3号路にやがては見晴台に至るまで、全山隈無く切り出されていったのである。
 そしてこの時代の伐採によって山腹の多くのもみじの大木が切り倒されたのである。
 今日、紅葉の高尾山として名を馳せているが、時代とはいえ、最も簡単に切り倒し、来たるべき時代を予期しえなかった事を、高尾山の一時代の史実としてあえて明記したところである。
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悔恨の念が綴られています。終戦から70年余り、いまを生きる我々が、あとからわかった事実やいまの価値観を振りかざして昔のひとたちを一方的に批判するのはあるまじき態度です。もちろん社史の執筆者もそれを踏まえた上で、あえて記載したのでしょう。これはこの時代の事情や要請を背景とした市井のひとたちの日常の営みにすぎず、致し方のないことです。いまあるもの、残してくれたもの、そしてこれから育つものを大切にしたいと思います。

(資料①)昭和50年(1975)撮影の航空写真。中心やや右上に表参道商店街が写り、そこから左方向に高尾山ケーブルカーとエコーリフトが伸びている。高尾山ケーブルカーの軌道から下の方に目を移すと稲荷山の尾根があり、その北斜面、日陰になっているところにびっしりと杉檜の植林が確認できる。戦後の伐採の後に植えたものと思われる。尾根の南側は伐採されて禿山になっている。また、1号路起点から金毘羅見晴台へ上がるルートの南向きの斜面も木々が伐採され、山肌が剥き出しになっている。(*2)
(資料②)こちらも昭和50年(1975)撮影の航空写真。写真右上、建物が密集しているのが薬王院の境内。自然林と植林の違いがはっきりと出ていて、薬王院の周辺は貴重な自然林が守られていることがわかる。(*2)

そして昭和25(1950)年、東京都は高尾山ならびにその周辺の山々を東京都立高尾山自然公園に指定し、高尾山の森林は保護対象となります。

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東京都告示第九百三十六号
 東京都立自然公園条例(昭和二十五年九月東京都条例第六十一号)第四条の規定により昭和二十五年十一月二十三日次のとおり都立自然公園を設定した。なおその区域を表示した図面は、南多摩郡浅川町、恩方村、元八王子村及び横山村役場に備え付けて縦覧に供する。
    昭和二十五年十一月二十五日
       東京都知事 安 井 誠 一 郎
名称 東京都立高尾山自然公園
区域 東京都南多摩郡浅川町、恩方村、元八王子村、横山村の一部

(以上、東京都公報 第六百九十九号 昭和二十五年十一月二十五日土曜日 より。原文縦書き)
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この告示にある地図はかなり簡略的で、果たしてこれでちゃんと設定区域が識別できたのか、と心配になるぐらいです。しかし、影響を受ける住民には説明があったでしょうし、本当に関心があれば役場に問い合わせるのが前提だったのでしょうから、とりあえずこのときはこれで十分だったのでしょう。

しかるに、これでは今の我々にはとてもわかりにくいので、そのあと昭和41年(1964)に公知された、自然公園の名称と範囲の変更を告知する東京都告示第七百九十七号を見てみましょう。

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東京都告示第七百九十七号
 東京都立自然公園条例(昭和三十三年四月東京都条例第十七号)第四条の規定により、昭和二十五年十一月二十五日東京都告示 第九百三十六号による告示に係る東京都立高尾山自然公園の名称及び区域を次のとおり変更する。
 なお、その変更に係る区域を表示した図面は、東京都庁及び東京都八王子市役所に備え置いて一般の縦覧に供する。
  昭和四十一年八月二十三日
      東京都知事 東   龍 太 郎

一 名称
 (一) 変更前名称 東京都立高尾山自然公園
 (二) 変更後名称 東京都立高尾陣場自然公園
二 区域
 (一) 変更前区域 東京都八王子市の一部
 (二) 変更後区域 東京都八王子市の一部
  次図表示のとおり。

(以上、東京都公報 第3104号 昭和41年8月23日火曜日より。原文縦書き)
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こちらの地図を見ると、昭和25年に指定された「変更前区域」がよくわかります。

高尾山山頂の立て看板。赤い斜線枠で囲われているのが都立公園。青い斜線枠で囲われているのが明治の森高尾国定公園。
同じく高尾山山頂の立て看板から、明治の森高尾国定公園の拡大図。全国58ヵ所指定されている国定公園のなかで、一番小さい公園です。

そして1967年(昭和42年)、東京都立高尾陣場自然公園のなかの、高尾山から城山にかかるエリアは「明治の森高尾国定公園」として、国定公園に指定されました。現在日本全国では58ヵ所が国定公園に指定されていますが、そのなかで一番小さな国定公園です(指定領域は770ha)(*6)。明治の森高尾国定公園が指定されたことで、指定領域は東京都立高尾陣場自然公園から除外されることになりましたが、除外後でも都立公園の指定区域は4,403ha(*6)。国定公園が、指定前の都立公園全体に占める割合は14.9%にすぎません。しかし小さいながらも、特に薬王院周辺では今でも貴重な自然林が広範囲で残されており、価値が高い領域です。

高尾山の主要な登山道(*3)
2号路3号路6号路ならびに病院道を表示。黄色でハイライトされている道は薬王院表参道(1号路)。(*3)
(資料③)昭和7年(1932)発行の地図。2号路3号路はなく、6号路も琵琶滝まで。霞台に続く病院道は江戸期より存在することがわかっている。(*4)

戦前の地図をみると(資料③)2号路3号路の記載はなく、また6号路も琵琶滝までで、そこから先は病院道を上って霞台に上がる道しか記載がありません。ただし、登山道としての記載がないだけで、林業用の道、いわゆる木樵道きこりみちは恐らくすでにあって、「高尾登山電鉄復活30年史」にあるとおりそれらが伐採に利用され、その後現在の2号路3号路ならびに6号路が整備されたのでしょう。

6号路は自然豊かな沢沿いの清涼な登山コースで、稲荷山コースと本格登山を志向するハイカーの人気を二分します。2号路から3号路にかけて山頂に向かう登山道は南側斜面の日が当たる温かいルートで、植生に特徴があり、春は様々な種類のスミレが芽吹き花を咲かせます。

こんにちこれらの道には、静謐な空間と温かい日差し、そして穏やかな自然の営みしかありません。


(*1)
「高尾登山電鉄復活30年史」、高尾登山電鉄株式会社総務部編、1979.10、P. 26
(*2)
《国土地理院コンテンツ利用規約に基づく表示》

出典:国土地理院HP 地図・空中写真閲覧サービス
整理番号:CKT7416-C35-6、CKT7416-C49-3
撮影日:昭和50年(1975)1月3日

(*3)
《国土地理院コンテンツ利用規約に基づく表示》
出典:国土地理院 1:25,000地図

加筆は筆者
(*4)
《国土地理院コンテンツ利用規約に基づく表示》
出典:大日本帝國陸地測量部 二万五千分一地形圖 八王子近傍九號
昭和七年一月三十日発行
加筆は筆者

(*5)
参考資料
首都大学東京 観光科学科 川原晋研究室、「高尾山 観光まちづくりオーラルヒストリー」、八王子市、2019.6

(*6)
参考資料
東京都 都政 報道発表 2018.08.09(閲覧日時:2024年3月10日)
高尾・陣場地区自然公園
明治の森高尾国定公園
都立高尾陣場自然公園
管理運営計画~高尾・陣場ビジョン~

https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/08/09/documents/09_03.pdf


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