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「五徳」を以ってのおもてなし

おもてなしの心を知る➡「五徳」

“『仁』人を思い遣ることに素直にあれ”

仏教では、
仁、義、礼、智、信の徳
(=五徳)を拡充することで、
父子、君臣、夫婦、長幼、朋友
の五倫の道を心から理解し
全うすることを説いています。

そしてその孔子の教えは、
利他主義であると解します。

あくまで私見ですが、
現在の日本人は個人中心意識が強過ぎ
自己主張・利己主義(egoism)、自己顕示
の意識と態度・言動を和の心で見直す
時期が来てるのではないでしょうか?

そして、
戦前の人々が確固として心に持っていた
「五常の徳」を尊重し、実践して行くこと、
即ち利他主義の意識をひとり一人の私達
日本人が備え持つことに焦点を当てる時
が来ているのではないでしょうか❓

その理由は次世代を担う若者たちの心に
社会や人のためになりたい、役立ちたい
と言う気持ちの言行が増えて来たのでは
と感じられるようになったからです。

五常の徳の解説

五常の徳

①五常の徳『仁』

人を思いやることに、素直にあれ
  ・・・思いやりの心を持つこと。
  ・・・仁義・真実・まこと・誠意。
  ・・・慈しみ、思いやり。
=互いに慈しみ合う姿で義・礼・智・信の
 徳を実践することが最終の目的である。

人を思い遣ること、これは内面的なもの、
詰り気持ちのことを意味しています。
「思い遣りの行動は、示さなくて良い」
と、思われる人がいるかもしれませんが
決してそうではありません。

孔子は『論語』で、
「仁」を以って最高の道徳であるとしており
日常生活から遠いものではない。

一方では容易に到達出来ぬもの、
と説明がなされている。

ある場合は「人を愛すること」と説明し、
顔回(ガンカイ)の質問に対しては
「克己復礼」こそが、「」である。

=私心を克服して礼を重んじること。
「己に克ちて、礼を復むを仁と為す」
と答えています。

前者は外部に対する行為を指し、
後者即ち顔回に対する答えは自身の
内なる修養のあり方を指してます。

具体的な心構えとしては、
「己れの欲せざるところ、
 これを人に施すなかれ」
がよく知られています。

即ち、
『仁』とは、
思い遣りの心で万人を愛し利己的な
欲望を抑えて礼儀を執り行うことです。

②五常の徳『義』

【正義を貫くに、素直にあれ】
正義。これは行動規範とも言えます。

孔子が『論語』の中で著した、
「義を見てせざるは、勇なきなり」
(人の道として当然行うべき事と
 知りながらこれを実行しないの
 は勇気がないということ)
との言葉は余りにも有名です。

私利私欲に囚われず、
成すべき事を成すということです。
古の中国思想では「利」と対比される概念。

利己主義即ち、自己中心的な行動を取り、
他者の存在を二の次とするような
利己的な行為を行わない事であり、
利他的な行為を取るようを意味します。

武士道での中心の心構えであり、
最も厳格な徳目は「義の精神」である。
」とは、
打算や損得のない人としての正しい道、
即ち【正義】を指すものであり、
」から派生した言葉に大義・道義・
節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義、
義理・義務・義憤・義侠・義士がある。

日本において武士と言われる古の人は、
この「義」を武士道精神の中心に据え、
これを踏み外した者は卑怯者として
糾弾の対象とされました。

この「義」には「正しい行い」と同時に
「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、
人間の根源的なエネルギーとされる欲望を
制御しなければなし得ないの意があります。

現代人の多くが行動判断の基準としている
合理的精神は付き詰めれば「どちらが得か」
と言うような相対的なことです。

それに対し、
武士道における「義」は、普遍的な良心の掟
基づく絶対的価値観を基本とし、言わば
不合理の精神であり「義」を遂行する為に
余程の自立心(≒信念)を養わなければならない
と伝承されて来ました。

新渡戸稲造は、その著『武士道』で、
武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神
と言いこの根源は「義を貫く」ということ
であり、武士は例え戦いに勝ったとしても、
不正な行為をした勝利者は賞賛されなかった。

「敵に塩を送る」の諺の元となったとされる
上杉謙信の有名なエピソードですが、
こうした話が美談として長年伝えられたのは、
裏を返せば、そうした侍が少なかったことの
表れではないかとも考えられます。

武士道が「義」を最高の支柱に置いたことは、
言い換えれば、
そうした至難の「義」を追求する事により
精神の「美学・心磨き」を求めたのでは❓

生死をかけた戦いに望む際に全ての武士が
上杉謙信のようにフェア・プレイの
精神を守ったわけではないと受止められます。

生きるか死ぬかという場面において、
例え卑怯者と蔑まれようとも勝ちたい
と考え思うのが人情であり、
いつの世にあっても本能は、美学よりも強く
理想は現実に打ち砕かれるのが世の常です。

だからこそ、
武士道はそのことを十分知りながら、
その現実を超越する己の理想の指針として、
「義」を厳しく求めたのです。

③五常の徳-『礼』

【礼を尽くすに、素直にあれ】
人の世に秩序を与える礼儀・礼節は、
「仁」を実践する上でとても大切です。

自らの行いを丁寧にすることを「」と言い
元々は、宗教儀礼でのタブーの行為や
伝統的な習慣・制度を意味しています。

後に、人間社会の上下関係で守るべき
ことを意味するようになりました。

儒者の中でも、
性悪説の立場に立った荀子は特に
」を重視したと言われています。

前記した、
五常のみであってはいけませんし、
」無してはあり得ないという事です。

大人と子供の違いは、
「礼節」が何たるかを知り、
身に着けているか、否かです。

人としての「礼節」を弁えてこそ、
初めて一人前の社会人と言えます。

己を謙遜し、相手を尊び敬い、
「礼」を其の場、其の時の状況(Т.P.О)
に応じて自らの行動が出来るように、
節目を弁える事を「節」と言います。

要約すると、親や年長者、目上の人に
礼儀(≒敬意表現)を尽くすこと、
自分を謙遜し、相手に敬意を持って
接することが「礼」で場合に応じて自ら
を律し、節度ある態度で行動することを
「節」であると言えます。

④五常の徳『智』

【知(知恵)を磨くに素直にあれ】
」とは、
 学問に励むこと、知識を重んじることです。
 この「」を辞書検索すると、
 1 物事をよく理解すること。
 2 物事を理解する能力。と在ります。

このことは事物を理解し、
判断する元となると解します。

即ち、智は人や物事の善悪(善し悪し)を
正しく判断する知恵のことを言うことです。

生きて様々な経験を積む内に培った知識は、
己の心の中で変化を遂げ、成長しながら、
自らの「」(知恵)となり正しい判断を支えます。

この「」をより高めるには、
偏りのない思考や物事との接し方に
基づき常々様々な知識を蓄えることが
とても肝要であると言えます。

今の世の中では、
勉強が出来ない人やスキル・知識が
無い人を愚か者だとけなす風潮が
多々あると思われますが唯単に、
勉強が出来るから賢いとは限りません。

例えば、
机上の論理計算だけがどんなに達者でも、
愚か者と呼ばれることさえあります。

真の愚か者とは同じ過ちを繰り返し、
何も学ばない存在を意味すると考えます。

学問を学ぶと言うことの一つには、
先人が犯した過ちや立身出世、
成功で得られた知識(知恵)を
学びとることに意味がある、
と考えてみては如何でしょうか。

中国の儒学者洪応明(こうおうめい)は、
「菜根譚(サイコンタン)」の書を世に残しました。

儒教、道教、仏教の教えを踏まえ、
処世の道(心の在り方)をより良く
生きる知恵が書かれた随想集です。

この「菜根譚」には、
「あまり暇があるとつまらぬ雑念が生じ、
  また、あまり忙しすぎると本来の
  自分を見失ってしまう」と言うように、
偏った生き方を戒める言葉が載ってます。

また、儒教では「中庸」と言い、
よいバランスを保って生きることが
大切であると記されており、
これは、正しい判断力を培うこと、
即ち「智」を高めるに於いても同様で
この「智」は必ずしも良い意味のみを
含む訳ではありません。

兼好法師は、
伝へて聞き、学びて知るは、
 真の智に非ず
」と言っています。
「知識に優れる」と言うような
 意味で用いられる場合は、
 往々にして表面的な智として称され、
 取るに足らないもの、功利的でも忌む
 べきものとして扱われることがあります。

真の「智」とは、孟子の云う「是非の心」
が寂然として動かざるが如くにまでに
長じたものであり私心に惑うことなく
明らかにし、全てに通ずるに至った
叡智(エイチ)のを言い表していると解します。

類似した言葉で、仁愛も知恵も
備え持っていること、思い遣りが
あり、賢いことを「仁智」と言います。

⑤五常の徳『信』 

【人を信じるに素直にあれ】『信』
この「信」は、言明を遵守し、
約束を守ることを言い表しています。
友人、知人、親や兄弟と言った全ての
人間関係における自分自身の在り方です。

日常生活で当たり前に感じている関係こそ、
どこかで見直す必要があると説いてます。

言い換えるなら、
友情に厚く、言明を違えないこと、
真実を「」を以って告げ、約束を
必ず守ること、誠実(至誠)であること。

このようなことは、
世の中に欠けていることではないでしょうか。

それは、五常の徳の中で大切だと
受け止め、感じられることです。

それを
五徳無くして、五倫有らず
と言われています。

孟子の四端説における「仁・義・礼・智
の四徳に対し前漢の董仲舒は五行説に
基づきこの「」を加えました。

は同情心、
は正義感、
は社会的節度、
は道徳的分別を言い、
これに「」を加えて
五常」となりました。

【五常の徳まとめ】

この五常の徳について、
二宮尊徳氏は自らの哲学として、
己の権利の行使と義務の履行は、
自らの信義に従い、至誠を以って
(誠実に)行われるべきだ、と解します。

二宮尊徳像

二宮尊徳氏は、
「人と人との関係の中には、
 物を売ったり買ったり、
 金を貸したり借りたり、
 という関係は決して少なくない。
 どのような経済的な行為も、
 仁義礼智信の道徳倫理的な基準に
 従ってなされるべきだ」
と説いています。

また、
他者に貸して喜び他人に借りて喜ぶと
言う自他両全に理想が実現するはずだ、
と言い表しています。

尊徳氏は、五常のような道徳的倫理観で
以って、金銭の貸し借りをしよう、
と教えたのです。

それ教えは「五常講」と呼ばれています。

詰り、物やお金を借りた者は、
借りた時の感謝の気持ちを忘れずに、
きちんと返せば、五常の徳を実行した
ことになるということを教えているのです。

以上のような知識を
若い頃に持っていたら現在とは違う
世界に居たまでは❓と感じて居ます。
でも、現状に否定的ではありません。

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