見出し画像

第53回 様々な中毒症で、勝手に苦しむ人々『苦悩中毒症』

 私達の思考や価値観というのは、もともと持って生まれた気質→これは親から受け継がれていたり、その人独自のものであったりしますが、これを礎に養育者、一番多いのはもちろん親であり、そこから日々出会う様々な人々や、起こる事象からの影響を受けてつくられていきます。

例えば、映画『万引き家族』のように、自分の家では家族で万引きをすることが普通のことで、それで生計を立てている場合、万引きはある意味正しいことであり、法律上は犯罪、倫理的には悪いことであっても、それはいつか習慣になり、万引きは自分にとって悪いことではないという思考を持って人生を送ることになります。

他に例を挙げると、まさに日本的と言える価値観である体育会系思考。昨今では、この体育会的思考は時代に合わないと言われるのをよく聞きますが、私は別に悪いとは思っていません。むしろ、まだまだ日本では、この体育会系思考は中高年以上の人々の多くには、正しく美しくかっこいいと理解されているのではないでしょうか。戦後の日本が驚きの速さで復興できたのは、これに通じる思想があったからと言っても過言ではありませんしね。

ただこの精神性を自分のものとして、自分自身が一生懸命努力し、他人に対してよき影響を与える場合はよいのですが、自分の立場を利用して、自分より弱い立場にいる人にこれを押し付けるのはどうかとは思っています。例えその人が似た思考を持っているとしても、体育会系の人はとにかく圧がすごいですからね。状況によっては、様々なハラスメントになりかねない。

「上下関係を重んじ、きつい練習に耐える精神性」

体育会系が多いのは、不動産、商社、広告代理店、メディア、金融などと言われ、まさに戦後の日本を支えてきた業界で、逆に少ない業界は、IT業界、公務員、職種で言えば研究職と言ったところでしょうか。

「気合」「根性」「努力」などの精神論は、グループの中で同調圧力を誘発します。この同調圧力がよき方向に働けば団結力を強固にし、素晴らしい成果を上げグループの原動力となります。しかしその思想が清く正しく美しく(笑)、モチベーションに直結する人もいる一方で、それが地獄の人もいるわけです。しかしこの国では、それが言えない空気感がある。

そしていつの間にかそれが習慣となり、正論となる。がんばってがんばって、つらく苦しい思いをして、その先にやっと幸せがある。ひいては、そういう思いをしなければ幸せは来ない…ならまだしも、そういう思いをしなければ幸せになってはいけないみたいな感覚を、私達日本人は持っていませんか?

しんどい思いをしている、苦悩していることが美徳であるかのような、カッコいいみたいな、そういう自分が好きみたいな人、多い気がしているのは私だけ?そしてその『苦悩』を感じていることが優秀であって、一生懸命苦しみながらがんばっている人が重用される組織だったりすると、悩まない、能天気な、天然な人はディスられて、バカにされて「あなたは悩みが無くていいよね~」とか言われたりしてしまう。

『苦悩』が価値あることと脳で定義づけされ、『苦悩』があることで幸せになれるという自動思考が習慣になった人生では、何事もなく穏やかで安心安定の時間を過ごしていると、だんだんと不安や罪悪感が湧いてきて、自分から『苦悩』を求めるようになります。

上昇志向がない人は意欲のないダメ人間のような、忙しい!忙しい!と言っていることがカッコいいような、悩みがないことが悪いことのような、このような自動思考によるおかしい強迫観念で追い込まれている人が多いのも、この国の特徴の一つです。それもまじめでいい人ほど、苦悩中毒症になりやすかったりします。

私はこう思います。
苦しくても楽しくても、人には幸せになる、幸せに生きる権利があるということ。私はカウンセラーとして、クライエントさんが苦しみ悲しんでいる姿を見るのは本意ではありません。しかしクライエントさん本人が求める、望む幸せというものがあって、それが『苦悩』ありきであるのなら、悲劇のヒロインを美しいと感じてしまうのなら、それはそれで幸せなのかも知れないということです。

冷たいようですが、それぞれの価値観が違うように、それぞれの幸せも違いますからね。ということで、「この苦しみから抜け出したい…」と言いながらも、『苦悩』に支えられてる人ってまぁまぁいるんですよというお話でした。