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聴いて話して居着かないそれが良い場の作り方

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

病院というところはいつどんな要件で行っても「気が滅入る場所だなあ」と感じます。

とは言え、病院で働いている人達については、「とても感謝しています」という気持ちをいつも持っているというのはここでしっかり言っておきたいと思います。本当にありがとうございます。

そんな、「気が滅入る」のと「感謝」が入り交じった気持ちで大きい病院に行ってきたんですが、医療従事者の方の仕事に取り組む姿勢にいたく感心させられました。

僕はこれまで色んな病院にかかってきましたが、「この先生、良い先生だなあ」と思ったことは本当にごくわずかしかありません。

大抵は、こちらの話を全然聞いてももらえず、カルテに何かを書きながら一切目が合う事もなく一方的に説明をして診断を下して診察が終わり、処置や薬の処方をされて終了するというスタイルが定番の先生にお会いする事がほとんどでした。

現在のかかりつけのお医者さんや、過去にお世話になってきた整骨院の先生にはそういうスタイルの先生ではありませんでしたが、それ以外のこれまで過去にかかってきたお医者さんは、ほぼ全てが、話を聞いてくれないしまるで流れ作業のように診察をするスタイルの先生ばかりでした。

ところが、今日行った大きな病院で会った先生方は、しっかり説明をしてくれた時点で、「すげー良い先生達だ」と感激していたんですが、説明だけでなく、こちらの話もしっかり聞いてくれたうえで、不安に感じている事柄や心配している事柄について「わかっている事」と「わかっていない事」を切り分けたうえで説明をしてくれるんです。しかも、患者であるこちら側の気持ちに寄り添おうとしてくれる姿勢を全員が示してくれたんです(寄り添えていたかどうかで言うとカウンセラー視点で見てしまうのでなかなか厳しい採点になってしまいます)。

「あれ?自分が知っている病院の先生とは全然違うぞ?」

これが率直な感想でした。
自分がこれまでの人生で会ってきたお医者さんという職業の人達のほとんどが、「上から目線」をデフォルトにした関わりをしてくる人ばかりでした。
中には、「なぜ、病気や怪我で困って病院に来ている僕に、そんなに喧嘩腰で関わってくるんですか?」と思わず聞いてしまいたくなるような先生にもたくさん会ってきました。

だから、今日も、大きな病院に行くというのがわかった時点で身も心も「構えて」臨んでいったんです。

そうしたら、あまりの親身な関わりぶりをしてもらって、とて深い反省をしました。

「これまでの大部分がクソだったからと言って、今日会う人達がクソなわけではないだろう。医者という職業に対しての“偏見”を持っていたし、自分の過去の経験しか見ていない“愚者”になってしまっていたんだ」

そう、自分自身に対して戒めました。

「可能性」について考えておくのは、とても素晴らしい事だと思います。
「何か良い事が起きる可能性」とか「何か悪い事が起きる可能性」とか「何も起きない可能性」とかと言った様々な可能性について、しっかりと自分の中で考えておくことで、実際に考えていた「可能性」の中に無かった事が起きたとしても、「それ以外の可能性」について考えていたとも言えるので、なにがしかの適切な対応ができる可能性が跳ね上がるわけです。
だけど、「一切何も考慮しない」状態で物事に臨むとしたら、自分にとって望ましいことも望ましくないことも誰かにとって望ましい事であっても、それは全て「想定の範囲外」になってしまうので、その瞬間から対応について考えるという事が発生するので、とても大変な状況になるであろう事は容易に想像ができてきます。

そう考えると、「新しい状況に身を置く際に、過去の何らかの経験や観念や想いにとらわれ続ける」というのは、「居着き」を生んでしまう事になるわけで、「変わり続ける」という宿命というか命題を持っている生命体からは、どんどん離れていってしまうという事に繋がると思うんです。

武道や武術の世界では、「居着き」という状態は、「居着き、すなわち、死」と言われていますから、足捌きとか運足(格闘技でいうところのフットワーク)をとても大事にしているわけです。それは、動き続ける事で、相手の攻撃を受けないようにしたり、躱しきれなくても致命傷を負わないとかが大切なわけです。
物理的な生き死にをかけた闘いの場であってもそれが大事なんですから、「“仮想”闘いの場」と言ってもよいであろう「仕事」という状況についても、「居着き、すなわち、死」なのは変わらないので、「変わり続ける」はもはや必須なのは当たり前だし、「変わらない」を選ぶという事は、当然、「死」を意味するんだろうなと思うわけです(もちろん、武術などのように身体的な死ではなく観念的な部分についての話だとは思っています)。

「生き残るためには、その場に居着かず、ずっと動き続ける」

これだけが、自分が生き残るのに重要な要素なんじゃないかなと、今は思っているんです。

だとすれば、

僕が、僕自身の体験である「昔の経験」から認識していた「医者のイメージ」を固定化していた事によって、考えも及ばなかった医療についての考え方があって、でも、それを手に入れる事ができなくて、医療について「大きな勘違い」をしていたかもしれない、と考えています。

今日行った病院や、今日会った先生方も、「変わり続ける」のが自分達の目的を果たすためには最も有効だと考えたんだと思うんです。だって、お医者さん以上に、この世界の中で“合理的”に考える必要に迫られている職業は無いはずなんですから。
例えば、「人命を救う」とか「病を根絶する」とか「病や怪我で苦しむ人を救う」とかというような目的が医者という仕事が掲げるモノなんじゃないかなと推測するんです(あくまでも推測です)。だとすれば、それを成し遂げる為には、“非合理的”である事は「誰かの生命」に直結する事なので、「しない」「できない」「してはいけない」などのような観念が生まれてくるんじゃないかなと思うんです(もちろん、そんなに理想通りにはいかないのは重々承知していますが)。

その目的を果たすかのように、今日会ったお医者さんのうちの一人の先生がこんな事を言ってくれました。

「できれば、こんなところ、来ないに越した事はないもんね」

この言葉を聞いて、僕は確信したんです。

少なくとも、この先生は、そして、この先生が勤務しているこの病院の流儀としては、「きちんと話が聞けて、きちんと説明ができて、不機嫌さを表に出さない事、これらが人命を救う事に有用である」という判断をしたという事なんじゃないかなと思っているんです。

それを考えると、「仕事をうまく回すために必要なのは、そんなに複雑な事では無い」というのが明確に見えてくるわけです。

なぜなら、今日行った病院とお医者さんの多くの人がやっているんです。

「大病院のお医者さん達という、最難関の知識や技術を持っていて、且つ、常にその知識や技術をアップデートし続けて、尚且つ、関わる全ての人の生命を救おうと取り組んでいるであろう人達で構成されている組織」という事を。

これによって、患者の話が聞けるし、患者の説明もちゃんと聞けるし、医者同士のコミュニケーションも取れるし、患者も医者も医療従事者も、誰も不機嫌になる必要がなくなっていくわけです。そうして、また患者はその病院にかかりたくなるし、医者もそういう患者とはコミュニケーションが取れるようになるし、病院内に「怒鳴り散らすヤバいヤツ」は発生しないし、全てが良い方向に回るようになっているという実例を目撃し、それに気付く事ができました。

そこに焦点を当てれば、「とても素晴らしい病院体験」だとも言えるはずなんですが、それがわかっていてもなお、「病院はおっかねー場所だ」と思っているこの僕の感覚はなかなか拭えません。

完全に居着いている自覚はあります。

でも、こればっかりは変わらない…。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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